【新連載】Dance Video Evolution.- ストリートダンスと音楽のつながりをミュージックビデオからひもとく -DJ HIROKINGとは?

2020.07.31

FINEPLAY新連載「Dance Video Evolution. – ストリートダンスと音楽のつながりをミュージックビデオからひもとく – 」がスタート。
本企画は日本のストリートダンスシーンに影響を与えたミュージックビデオにスポットをあて、音楽とダンスの双方の視点からご紹介をしていきたいと思います。ナビゲーターには日本のストリートダンスシーンにおいて、自身もダンサーの肩書きを持ちつつ、DJとして約20年に渡りシーンを支えてきたDJ HIROKINGを迎え、音楽とダンスの関係性を解説してもらい読者にたのしんでいただきたいと思っています。
今回は本編にいく前にDJ HIROKING自身をご紹介。DJやダンスのルーツについてご本人に伺いました。

DJ HIROKING
1982年生まれ東京出身のDJ。早稲田大学 教育学部卒。15歳でDJをはじめ、16歳でBREAKINをはじめる。現役ダンサーから絶大な人気を誇り、国内外の多くのダンスイベントで活躍する。HipHopとFunkを中心に、新旧の様々なジャンルをスムーズに行き来するスタイルが高く評価され、世界最大級のダンスバトル「DANCE ALIVE HERO’S」のレギュラーDJをはじめ、Inter FM897「TOKYO DANCE PARK」や自身がオーガナイズするライブ・パーティ「Tokyo Soul Drive」のライブ・バンド・ディレクターとしても活動を広げつつある。ニューヨーク、ラスベガス、ヒューストン、シドニー、シンガポール、台湾、ジャカルタ、上海など、世界30都市以上をまたにかけて活動中。ダンサーとしても、BBOY PARK準優勝、映画「マスク2」への出演、Madonnaのベストアルバムプロモーションへの参加、韓国のトップブレイクチームGamblersとの共演など、シーンの第一線で活躍するプレイヤーでもある。2010年、iTunesでリリースしたコンピアルバム「Dancers Masterpiece」がダンスチャート1位・総合チャート4位を獲得し、8月にはその続編となる「Dancers Masterpiece Official Mix」をリリース。また2012年Sweet Soul Recordsからリリースされたカヴァー・アルバム「Dance, Soul Lights」を監修、iTunes R&B チャートの1位を獲得。一方、2011年の「風営法のダンス規制における公開質問状」を皮切りに、政治や行政に対して独自のアプローチを行ったことからNHKや朝日新聞にも取り上げられ、風営法改正運動における先駆者の一人として広く認知される社会派DJ。

|DJとダンスをはじめたきっかけ

早速ですが、DJ HIROKINGさんは、DJでありBBOY(ダンサー)でもあるんですよね?

そうですね。DJは中学3年生の時に兄の友人の勧めで始めて、ダンスは高校1年生の時にクラブで踊っている人がかっこよくて、自分もやってみたい!と思って始めました。

今から約23年前、時代でいうと1997年 AIR MAX がとんでもなく流行っていた時代ですね。

東京生まれで中学時代から渋谷界隈でよく遊んでいたんですが、その頃はものすごくナイキのAIR MAX が流行していた時期で、スニーカーをナイキショップに買いに行っては他のショップに転売するということをやっていました。それでDJ機材を買うお金(約20万円)もいつのまにか貯まっていました。DJ機材を買おうと思ってス二ーカーの転売をやってたのではなく、完全に後付けで買った感じです。きっかけは本当に兄の友人からの一言で「やってみよっかな」という気軽な気持ちで始めました。

それから、イベサー(イベントサークル)が物凄い勢いを見せる時代に突入するわけですね。

そうですね、いわゆる雑誌として絶大な影響力のあったeggやストニュー(東京ストリートニュース!)を中心にギャル・ギャル男文化が大流行して、若者のクラブパーティも、チーマー主流のものからギャル・ギャル男主流のものにシフトしつつあったんですよね。パー券(パーティ券)を学生が売りさばく時代になり、僕も高校生DJとして渋谷のクラブでしょっちゅうプレイをしていました。当時は高校生のイベントサークルが都内近郊の各地にあって、本当に勢いがありました。毎週2・3つくらいイベントに呼ばれていたんじゃないかな?高校生でDJできる奴も少なかったので、それなりに名前も売れていたと思います。1,000人規模のイベントも結構ありました。高校生ながら、渋谷を歩いていれば知り合いに会うような日常でしたね。

DJとしてどんな音楽をクラブイベントで回していたんですか?

HIP HOPとヨーロッパのDANCE POPが主でした。当時からHIP HOPが好きだったので、求められるよりは多めにHIP HOPをプレイしていたと思います。Naughty By Nature – HipHop HoorayやHouse Of Pain – Jump Aroundは定番でしたね。パーティでDJをしていると、フロアでかっこいいダンスを踊っている人がいて、その人たちに影響を受けてブレイキンを始めるようになりました。

その頃って、どんな風にダンスを練習するんですか?

ダンススタジオなんて今ほどはなくて、ダンサーが個人で自主的に体育館を借りてレッスンをしていたり、街中の練習スポットみたいな場所に足を運んでその場にいるダンサーから学んでいました。例えば僕は東京ドームのあたりとか、武蔵境の体育館なんかでよく練習していましたね。当時は全然面識なかったですけどS.A.SのYOSHIO君とかもいて、彼はちょうどその頃流行っていたダンス番組「RAVE2001」でも高校生ながら活躍していたしものすごく上手かった。それは印象に残っています。

|DJとダンスを捨て単身オーストラリアへ

ある時突然、オーストラリアに留学したとか・・?

はい。若いうちに英語を習得しておきたかったのと海外で勝負してみたいってのがあって、ワーキングホリデービザをとってシドニーに10ヶ月滞在しました。高校まで早稲田実業に通い、そのまま早稲田大学に進学しました。そのうち、サイケとかパラパラ系のイベントが多くなりはじめて、僕はやっぱりHIP HOPが好きだったので、それらのイベントに出ていればそれなりに稼げましたけど、そのイベント文化からは徐々に抜けていきました。そういったきっかけもあり20歳の時に大学を休学して、DJもダンスも約1年は距離を置くつもりでオーストラリアに行きました。大好きだったクラブ(イベント)でやっとレギュラー出演をもらい始めた頃だったんですが、オーストラリアに行けば自分のキャリアなんてゼロ。でもどうしても英語を習得しておきたかったのと勝負したいという漠然とした気持ちがあり行きました。

オーストラリアでは実際どんな生活だったんですか?

DJとダンスを捨てたつもりで乗り込んだ初日、偶然ダンススタジオを見つけたんです。超ラッキーでした。とりあえず勢いで入ってみたら、日本人の方が経営に携わっていて、無料で自由に練習できるスペースもあるし、ローカルのダンサーもたくさん集まっているというなかなか恵まれた場所でした。飛び込んで早々スタジオにいたダンサーに”2週間後ダンスバトルがあるから一緒に出ないか”と誘われたんです。当時は英語も全くわからなかったけど、その場にいた現地の日本人に通訳してもらい勢いでOKと答え一緒に出ることになって、出たら出たで準優勝しちゃったんです。余談ですがそのダンススタジオのオーナーさんはシャブレイのNOBUさんのパートナーで、最初にダンスを教わったのはDJ WAKAさんだったそうです。

ダンサーとしても既にスキルが高かったんですね(!!)

オーストラリアに行くまでは、全くそんなこと思ってもいませんでした。当時から日本は全体的にダンサーのレベルが高かったんだと思います。とにかく異国の地で突然準優勝しちゃったもんだから、ダンスを捨てたつもりがダンスに救われた感じでした。オーストラリアに渡り2ヶ月後にはダンススタジオでレッスンを持っていましたからね(笑)。
その頃には友達もたくさん増えて地元のイベントにも遊びに行き、そこでサイファーで踊りあう感覚が身につきました。徐々にDJとしても現地のイベントで回すことができて、1年弱で20歳ながら月給50万くらいまで稼げるようになりました。我ながらすごいなと思います。そんなつもりではなかったのに、DJとダンスでここまでいけるのかと。それで、確信したんです。これで飯食っていこうって。

|日本でのサラリーマン時代

シドニーから帰国して就職活動が始まるんですよね?

はい。シドニーから帰国したのが2005年でダンス番組「少年チャンプル」(後のスーパーチャンプル)がすごく流行っていた時期でした。シドニーで知り合った日本人が新宿のRUINS 23というクラブを経営するようになり、そこでは少年チャンプルに出演しているダンサーがよくイベントに出演していました。僕もDJとしてイベントに呼んでもらい、RUINS 23のイベントはいわゆるチャンプルダンサーやそのファンが多かったのでダンサー相手にDJをするということの手応えは、そこで掴んでいった感じがあります。自分の武器に気付きはじめたのがその頃でした。
そうこうしているうちに大学を卒業して、人事コンサルタントの会社でサラリーマンとして働きながらDJやダンスを続けていました。社会人として働きつつダンスチーム“Born2Funk”を結成し、DJをやりながらも一方ではダンサーとしてバトルに挑戦したりもしていました。2006年にはBBOY PARKのクルーバトルで準優勝しました。

“プロ”のHIP HOP DJとして、若い頃にちゃんとギャラをもらってプレイする場数を踏めたのはシドニー生活があったからです。シドニーに行くまでは自分のお客さんを持っていなかったので、集客ノルマをこなしながらイベントに出演するようなこともありましたが、学生パーティの経験値や英語圏のローカルのお客さんを相手にDJをしてきたことが自信に繋がり、いつのまにかギャラを頂いてDJをすることができるようになっていました。
社会人を辞めてDJ一本でやっていこうと思っていた頃に、DANCE@LIVE(現:DANCE ALIVE HERO’S)を主催しているXyonを紹介され、2年目のシーズンから彼らのイベントに出演させていただくようになりました。サラリーマンは2年で辞めて、完全にDJでやっていこうと決めて今に至りますね。

|現在の主な活動

DJとその他の活動について、現在はどんなことをされていますか?

今は、DANCE ALIVE HERO’SなどのダンスバトルイベントのDJが多いですが、ライブバンドと一緒に演奏したり、ライブパーティ「Tokyo Soul Drive」を主催したり、InterFM897「TOKYO DANCE PARK」などのラジオ番組に出演させていただいたりしています。最近は楽曲制作が軌道に乗ってきて、自分の作品のリリースやアーティストへの提供、アプリや広告に使う音源を作ったりもしています。
昨年までは仕事の3割くらいは海外だったんですが、新型コロナウイルスの影響で旅ができなくなってしまったので、今は音楽理論や演奏の勉強に力を入れています。ストリートカルチャーや社会のあり方について、国会議員や弁護士の方に直接お話しを聞いて、SNSでアウトプットをするなどしています。
ここ数年は黒人ラッパーやミュージシャンと一緒に活動することが多くなったこともあり、ブラックカルチャーの恩恵を受けて幸せに生きられてるなという実感が強くなってきました。ただブラックカルチャーを金稼ぎの手段にするんじゃなくて、人種差別に対する運動や啓蒙をしっかりやって、彼らのアートに込められた思いを若い世代に伝えていきたいと思っています。

|おわりに

DJ HIROKINGという人物

筆者である私とDJ HIROKINGの出会いは約8年前。主にダンスイベントの現場で会うことが多く、当時からいつも明るく人生を愉しんでいるような印象が強くありました。DJとしての現場対応力も非常に高く感銘を受けていました。彼がSNSを中心に発信する内容は音楽やダンスのことはもちろん、世論や政治的な発言も多くあり非常に興味深く感じていました。今回インタビューをとらせていただき、彼のボキャブラリーが豊富な理由がわかりました。世界各国でのイベントやDJの経験、加えて人脈があるがゆえの世界標準の俯瞰な視点と、ダンスと音楽の両軸から身を持って体感してきたプレイヤーとしての知見をもとに、次回からはミュージックビデオをテーマに解説していただきます。乞うご期待!

Written by :Takako Ito

Takako Ito
1986年東京生まれ。都立工芸高校グラフィックアーツ科、東京家政大学造形表現学科卒。アート・教育・エンタメを軸に現在はフリーランスとして活動。グラフィックデザイナーを経て、世界最大級のストリートダンスバトルイベントを主催する(株) アノマリーにジョインし、イベント・振付・キャスティング・映像などの制作ディレクションや、営業・広報と幅広く経験。その後リデル(株)にジョイン。Instagramの運用企画やマネジメント、クリエイティブ案件を中心にSNSマーケティング事業に携わる。1万人が来場する共感型フォトジェニック・アート展「VINYL MUSEUM」や「LittleTwinStars MILKYWAY MUSEUM -T A N A B A T A-」を統括する。

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