FINEPLAY新連載「Dance Video Evolution. – ストリートダンスと音楽のつながりをミュージックビデオからひもとく – 」がスタート。
本企画は日本のストリートダンスシーンに影響を与えたミュージックビデオにスポットをあて、音楽とダンスの双方の視点からご紹介をしていきたいと思います。ナビゲーターには日本のストリートダンスシーンにおいて、自身もダンサーの肩書きを持ちつつ、DJとして約20年に渡りシーンを支えてきたDJ HIROKINGを迎え、音楽とダンスの関係性を解説してもらい読者にたのしんでいただきたいと思っています。
今回は本編にいく前にDJ HIROKING自身をご紹介。DJやダンスのルーツについてご本人に伺いました。

DJ HIROKING
1982年生まれ東京出身のDJ。早稲田大学 教育学部卒。15歳でDJをはじめ、16歳でBREAKINをはじめる。現役ダンサーから絶大な人気を誇り、国内外の多くのダンスイベントで活躍する。HipHopとFunkを中心に、新旧の様々なジャンルをスムーズに行き来するスタイルが高く評価され、世界最大級のダンスバトル「DANCE ALIVE HERO’S」のレギュラーDJをはじめ、Inter FM897「TOKYO DANCE PARK」や自身がオーガナイズするライブ・パーティ「Tokyo Soul Drive」のライブ・バンド・ディレクターとしても活動を広げつつある。ニューヨーク、ラスベガス、ヒューストン、シドニー、シンガポール、台湾、ジャカルタ、上海など、世界30都市以上をまたにかけて活動中。ダンサーとしても、BBOY PARK準優勝、映画「マスク2」への出演、Madonnaのベストアルバムプロモーションへの参加、韓国のトップブレイクチームGamblersとの共演など、シーンの第一線で活躍するプレイヤーでもある。2010年、iTunesでリリースしたコンピアルバム「Dancers Masterpiece」がダンスチャート1位・総合チャート4位を獲得し、8月にはその続編となる「Dancers Masterpiece Official Mix」をリリース。また2012年Sweet Soul Recordsからリリースされたカヴァー・アルバム「Dance, Soul Lights」を監修、iTunes R&B チャートの1位を獲得。一方、2011年の「風営法のダンス規制における公開質問状」を皮切りに、政治や行政に対して独自のアプローチを行ったことからNHKや朝日新聞にも取り上げられ、風営法改正運動における先駆者の一人として広く認知される社会派DJ。
|DJとダンスをはじめたきっかけ
早速ですが、DJ HIROKINGさんは、DJでありBBOY(ダンサー)でもあるんですよね?
そうですね。DJは中学3年生の時に兄の友人の勧めで始めて、ダンスは高校1年生の時にクラブで踊っている人がかっこよくて、自分もやってみたい!と思って始めました。
今から約23年前、時代でいうと1997年 AIR MAX がとんでもなく流行っていた時代ですね。
東京生まれで中学時代から渋谷界隈でよく遊んでいたんですが、その頃はものすごくナイキのAIR MAX が流行していた時期で、スニーカーをナイキショップに買いに行っては他のショップに転売するということをやっていました。それでDJ機材を買うお金(約20万円)もいつのまにか貯まっていました。DJ機材を買おうと思ってス二ーカーの転売をやってたのではなく、完全に後付けで買った感じです。きっかけは本当に兄の友人からの一言で「やってみよっかな」という気軽な気持ちで始めました。
それから、イベサー(イベントサークル)が物凄い勢いを見せる時代に突入するわけですね。
そうですね、いわゆる雑誌として絶大な影響力のあったeggやストニュー(東京ストリートニュース!)を中心にギャル・ギャル男文化が大流行して、若者のクラブパーティも、チーマー主流のものからギャル・ギャル男主流のものにシフトしつつあったんですよね。パー券(パーティ券)を学生が売りさばく時代になり、僕も高校生DJとして渋谷のクラブでしょっちゅうプレイをしていました。当時は高校生のイベントサークルが都内近郊の各地にあって、本当に勢いがありました。毎週2・3つくらいイベントに呼ばれていたんじゃないかな?高校生でDJできる奴も少なかったので、それなりに名前も売れていたと思います。1,000人規模のイベントも結構ありました。高校生ながら、渋谷を歩いていれば知り合いに会うような日常でしたね。
DJとしてどんな音楽をクラブイベントで回していたんですか?
HIP HOPとヨーロッパのDANCE POPが主でした。当時からHIP HOPが好きだったので、求められるよりは多めにHIP HOPをプレイしていたと思います。Naughty By Nature – HipHop HoorayやHouse Of Pain – Jump Aroundは定番でしたね。パーティでDJをしていると、フロアでかっこいいダンスを踊っている人がいて、その人たちに影響を受けてブレイキンを始めるようになりました。
その頃って、どんな風にダンスを練習するんですか?
ダンススタジオなんて今ほどはなくて、ダンサーが個人で自主的に体育館を借りてレッスンをしていたり、街中の練習スポットみたいな場所に足を運んでその場にいるダンサーから学んでいました。例えば僕は東京ドームのあたりとか、武蔵境の体育館なんかでよく練習していましたね。当時は全然面識なかったですけどS.A.SのYOSHIO君とかもいて、彼はちょうどその頃流行っていたダンス番組「RAVE2001」でも高校生ながら活躍していたしものすごく上手かった。それは印象に残っています。

|DJとダンスを捨て単身オーストラリアへ
ある時突然、オーストラリアに留学したとか・・?
はい。若いうちに英語を習得しておきたかったのと海外で勝負してみたいってのがあって、ワーキングホリデービザをとってシドニーに10ヶ月滞在しました。高校まで早稲田実業に通い、そのまま早稲田大学に進学しました。そのうち、サイケとかパラパラ系のイベントが多くなりはじめて、僕はやっぱりHIP HOPが好きだったので、それらのイベントに出ていればそれなりに稼げましたけど、そのイベント文化からは徐々に抜けていきました。そういったきっかけもあり20歳の時に大学を休学して、DJもダンスも約1年は距離を置くつもりでオーストラリアに行きました。大好きだったクラブ(イベント)でやっとレギュラー出演をもらい始めた頃だったんですが、オーストラリアに行けば自分のキャリアなんてゼロ。でもどうしても英語を習得しておきたかったのと勝負したいという漠然とした気持ちがあり行きました。
オーストラリアでは実際どんな生活だったんですか?
DJとダンスを捨てたつもりで乗り込んだ初日、偶然ダンススタジオを見つけたんです。超ラッキーでした。とりあえず勢いで入ってみたら、日本人の方が経営に携わっていて、無料で自由に練習できるスペースもあるし、ローカルのダンサーもたくさん集まっているというなかなか恵まれた場所でした。飛び込んで早々スタジオにいたダンサーに”2週間後ダンスバトルがあるから一緒に出ないか”と誘われたんです。当時は英語も全くわからなかったけど、その場にいた現地の日本人に通訳してもらい勢いでOKと答え一緒に出ることになって、出たら出たで準優勝しちゃったんです。余談ですがそのダンススタジオのオーナーさんはシャブレイのNOBUさんのパートナーで、最初にダンスを教わったのはDJ WAKAさんだったそうです。

ダンサーとしても既にスキルが高かったんですね(!!)
オーストラリアに行くまでは、全くそんなこと思ってもいませんでした。当時から日本は全体的にダンサーのレベルが高かったんだと思います。とにかく異国の地で突然準優勝しちゃったもんだから、ダンスを捨てたつもりがダンスに救われた感じでした。オーストラリアに渡り2ヶ月後にはダンススタジオでレッスンを持っていましたからね(笑)。
その頃には友達もたくさん増えて地元のイベントにも遊びに行き、そこでサイファーで踊りあう感覚が身につきました。徐々にDJとしても現地のイベントで回すことができて、1年弱で20歳ながら月給50万くらいまで稼げるようになりました。我ながらすごいなと思います。そんなつもりではなかったのに、DJとダンスでここまでいけるのかと。それで、確信したんです。これで飯食っていこうって。
|日本でのサラリーマン時代
シドニーから帰国して就職活動が始まるんですよね?
はい。シドニーから帰国したのが2005年でダンス番組「少年チャンプル」(後のスーパーチャンプル)がすごく流行っていた時期でした。シドニーで知り合った日本人が新宿のRUINS 23というクラブを経営するようになり、そこでは少年チャンプルに出演しているダンサーがよくイベントに出演していました。僕もDJとしてイベントに呼んでもらい、RUINS 23のイベントはいわゆるチャンプルダンサーやそのファンが多かったのでダンサー相手にDJをするということの手応えは、そこで掴んでいった感じがあります。自分の武器に気付きはじめたのがその頃でした。
そうこうしているうちに大学を卒業して、人事コンサルタントの会社でサラリーマンとして働きながらDJやダンスを続けていました。社会人として働きつつダンスチーム“Born2Funk”を結成し、DJをやりながらも一方ではダンサーとしてバトルに挑戦したりもしていました。2006年にはBBOY PARKのクルーバトルで準優勝しました。
“プロ”のHIP HOP DJとして、若い頃にちゃんとギャラをもらってプレイする場数を踏めたのはシドニー生活があったからです。シドニーに行くまでは自分のお客さんを持っていなかったので、集客ノルマをこなしながらイベントに出演するようなこともありましたが、学生パーティの経験値や英語圏のローカルのお客さんを相手にDJをしてきたことが自信に繋がり、いつのまにかギャラを頂いてDJをすることができるようになっていました。
社会人を辞めてDJ一本でやっていこうと思っていた頃に、DANCE@LIVE(現:DANCE ALIVE HERO’S)を主催しているXyonを紹介され、2年目のシーズンから彼らのイベントに出演させていただくようになりました。サラリーマンは2年で辞めて、完全にDJでやっていこうと決めて今に至りますね。

|現在の主な活動
DJとその他の活動について、現在はどんなことをされていますか?
今は、DANCE ALIVE HERO’SなどのダンスバトルイベントのDJが多いですが、ライブバンドと一緒に演奏したり、ライブパーティ「Tokyo Soul Drive」を主催したり、InterFM897「TOKYO DANCE PARK」などのラジオ番組に出演させていただいたりしています。最近は楽曲制作が軌道に乗ってきて、自分の作品のリリースやアーティストへの提供、アプリや広告に使う音源を作ったりもしています。
昨年までは仕事の3割くらいは海外だったんですが、新型コロナウイルスの影響で旅ができなくなってしまったので、今は音楽理論や演奏の勉強に力を入れています。ストリートカルチャーや社会のあり方について、国会議員や弁護士の方に直接お話しを聞いて、SNSでアウトプットをするなどしています。
ここ数年は黒人ラッパーやミュージシャンと一緒に活動することが多くなったこともあり、ブラックカルチャーの恩恵を受けて幸せに生きられてるなという実感が強くなってきました。ただブラックカルチャーを金稼ぎの手段にするんじゃなくて、人種差別に対する運動や啓蒙をしっかりやって、彼らのアートに込められた思いを若い世代に伝えていきたいと思っています。
|おわりに
DJ HIROKINGという人物
筆者である私とDJ HIROKINGの出会いは約8年前。主にダンスイベントの現場で会うことが多く、当時からいつも明るく人生を愉しんでいるような印象が強くありました。DJとしての現場対応力も非常に高く感銘を受けていました。彼がSNSを中心に発信する内容は音楽やダンスのことはもちろん、世論や政治的な発言も多くあり非常に興味深く感じていました。今回インタビューをとらせていただき、彼のボキャブラリーが豊富な理由がわかりました。世界各国でのイベントやDJの経験、加えて人脈があるがゆえの世界標準の俯瞰な視点と、ダンスと音楽の両軸から身を持って体感してきたプレイヤーとしての知見をもとに、次回からはミュージックビデオをテーマに解説していただきます。乞うご期待!
Written by :Takako Ito
Takako Ito
1986年東京生まれ。都立工芸高校グラフィックアーツ科、東京家政大学造形表現学科卒。アート・教育・エンタメを軸に現在はフリーランスとして活動。グラフィックデザイナーを経て、世界最大級のストリートダンスバトルイベントを主催する(株) アノマリーにジョインし、イベント・振付・キャスティング・映像などの制作ディレクションや、営業・広報と幅広く経験。その後リデル(株)にジョイン。Instagramの運用企画やマネジメント、クリエイティブ案件を中心にSNSマーケティング事業に携わる。1万人が来場する共感型フォトジェニック・アート展「VINYL MUSEUM」や「LittleTwinStars MILKYWAY MUSEUM -T A N A B A T A-」を統括する。
DJ HIROKING 関連イベント
FINEPLAY ウェビナー
「意図しない人種差別で炎上するのは嫌だ!2020年代のクリエイティブにおけるリスクマネージメント」
SPECIAL EDITION

FINEPLAYはアクションスポーツ・ストリートカルチャーに特化した総合ニュースメディアです。2013年9月より運営を開始し、世界中のサーフィン、ダンス、ウェイクボード、スケートボード、スノーボード、クライミング、パルクール、フリースタイルなどストリート・アクションスポーツを中心としたアスリート・プロダクト・イベント・カルチャー情報を提供しています。
アクションスポーツ・ストリートカルチャーの映像コンテンツやニュースを通して、ストリート・アクションスポーツの魅力を沢山の人へ伝えていきます。
●今日 ○イベント開催日
-
surfSurf Voice Vol.9「1960年代のサーフファッション」2021.04.061966年、日本サーフィン連盟が結成されて初めて、第一回サーフィン大会が千葉県の鴨川ビーチで開催された。 現在のように、競技サーフィンが個人のパフォーマンスを評価する時代ではなく、クラブ単位の優越をつけることの方が重要で、湘南、千葉、東京のローカルコミュニティーのプライドを賭け、サーファーたちはそれぞれの地域性(スタイル)の違いを主張しあった。 各クラブは、ネーミングの由来にこだわり、クラブワッペンを作っては、手作りのトランクスや、スイングトップの胸にパッチして楽しんだ。 我々の所属していた鎌倉の少年チームは、”サーフィンメイツオブグレミー”と称し、日本サーフィン連盟に登録された最年少(最強)チームであった。 幸い、我々の住んでいた場所から横須賀のマリンベースが近く、米兵相手のワッペン屋が軒を連ねるどぶ板通り――日が落ちると、怪しい飲み屋街に変身するエリヤ――になんども通い、気に入ったデザインができるまで、妥協せず日参したのである。 1964年の東京オリンピック前後の日本には、まだファッションと呼ばれる、人を夢中にさせるトレンドが無く、なんでも自前で揃えるのが常だった。 当時は、くたびれたUSサーファーマガジンが唯一の情報源。まわりに物がない中で、”あーでもない、こーでもない”と大いに妄想を拡げたのだった。 T-シャツ編 ビーチで友達になった米兵の子供が持ってきてくれた、ビニール袋に3枚入った”フルーツオブザルーム”。今思えば薄手の安物、洗うとすぐ目が透けてしまう代物だったが、友人と分けて愛用した。 洗濯は自身で手もみ洗い、大事に大事にファッションした。ちなみに真っ白で、スクリーで”どこどこ”サーフボードのメーカープリント入りではなかった。 それまでは、グンゼの肌着しかなかった。肌着を堂々とストリートファッションにしたのは、僕らサーファーだった。 スニーカー編 国産では運動靴と呼ばれるものしか無かった。それでもバスケットシューズだけはクールだった。テニスシューズも頑張っていたが、USサーファーマガジンの広告に出ていたローカットのユニロイヤルには、足元にも及ばなかった。 そっ!そういえばデュークカハナモクの花柄プリントは究極だった。友人のつてで回ってきた時は、サイズは少し窮屈だったけど、本物を手にし、小躍りして喜んだ。 ところが、勝浦のサーフィンコンテストで、畑のあぜ道に止めておいた車が車上荒らしに遭い、このスニーカを盗られてしまった。僕は、ショックで呆然としながら鎌倉へ戻った。 数ヶ月が経ち勝浦署から連絡が入り、「物が出た」と言うのでわざわざそのために出かけたが、その変わり果てた姿に愕然とした。持ち帰ったが、とても履けるような状態ではなかったので、心を鬼にして捨てることにした。 トランクス編 これはサーファーの究極のファッションアイテム。でも残念ながら、僕はハングテンやジャンセンを手に入れることはできなかった。 なので、母親に頼み込んで作ってもらった。中学校からの帰り道、鎌倉の駅前の生地屋をチェックして回り、材料を手に入れた。ベルクロテープがない時代、スチール製のファスナーは砂をかみ、塩水でいじめられ、すぐに機能を果たさなくなったが、気分は十分に盛り上がって、意味なく学生鞄の中に忍ばせていた。 この”デガワママ メイド”のトランクスはカッコよかったし、仲間に珍重された。ただし綿素材のため乾きが悪く、いつまでも湿った砂が絡み付いていた。 ワックス編 だいたいサーフィン専用のワックスというのは、世界的にもめずらしく、ボードには工業用パラフィンを利用していた。だが、そのことを知らない鎌倉のサーフィン少年隊は、仏壇のろうそくがサーフィンワックスの代わりだった。 それも極太のやつで、ゴシゴシデッキにワックスがけ、誰かが薬局でパラフィンを入手できると知るまで、普通に使っていた。仏壇のろうそく消費量は膨らむばかり。これには両親も呆れ果てていたが、そんなこと御構い無しに、家から持ち出してはワックスアップに余念がなかった。 まっ、日本の60年代のサーフィンシーンは、こんなものだった。今じゃーネットで、何から何まで揃う時代……。でも何か充足感がないな~と思う今日この頃だ。 文・写真提供:出川三千男
-
climb【スポーツクライミング】森秋彩が連覇達成! 吉田智音が初優勝「LJC2021」2021.03.283月26日から3月28日の3日間、千葉県印西市・松山下公園総合体育館においてスポーツクライミング・リード競技日本一を決める大会「スポーツクライミング第34回リードジャパンカップ」(以下、「LJC2021」)が約1年ぶりとなる有観客試合で開催。3月28日、男子女子ともに決勝が行われ、男子では吉田智音(奈良県立青翔高等学校)が、女子では森秋彩(茨城県山岳連盟)が優勝を果たした。吉田はLJC初優勝、森は自身2度目の連覇、通算4度目の優勝となる。 男子決勝 男子決勝には藤井快(TEAM au)が首位で進出したほか、リードを得意とするベテラン樋口純裕(佐賀県山岳・スポーツクライミング連盟)、天笠颯太(日本大学)、田中修太(神奈川大学)、吉田といったルーキー勢が進出。前大会王者の西田秀聖(天理高等学校)は惜しくも予選敗退となった。決勝では、吉田と樋口がともに高度34+、カウントバックで吉田が首位。勝負の行方は最終クライマーである藤井のクライミングに託される。藤井は惜しくも高度33+でフォール。吉田が首位を守り、自身初の優勝を飾った。 女子決勝 女子決勝へは、準決勝でTOPホールドに達した森が首位通過。谷井菜月(橿原学院高等学校)が高度40で森に続き2位で決勝進出。野口啓代(TEAM au)が高度36で決勝へ進出したほか、阿部桃子(相模女子大学高等部)、平野夏海(国士舘高等学校)、柿崎未羽(東京都山岳連盟)、中川瑠(金蘭会高等学校)といった若手が決勝へ進出した。伊藤ふたば(TEAM au)、野中生萌(XFLAG)は惜しくも上位8名に入れず準決勝で敗退となった。女子決勝では、野口が貫禄の高度37+で首位に躍り出る。後半、谷井は惜しくも高度34+で落下。野口、中川の表彰台が決定し、勝負は最終登攀者であるディフェンディングチャンピオン・森の登り次第となる。森の登攀、高度34から残り30秒で怒涛の快進撃をみせ逆転。タイムアップとなったが高度39を記録。自身2度目の連覇、通算4度目の優勝を獲得した。 優勝者コメント 男子優勝:吉田智音 まだ信じられないという気持ちでいっぱいです。1位を狙ってはいましたが、5位までに入ることができればと思っていたので本当に驚いています。皆さんのバルーンでの声援がとても力になりました。今後はW杯の決勝にコンスタントに残れる選手になっていきたいです。 女子優勝:森秋彩 決勝はかっこいい課題だったので完登したいと思っていました。だからこそ完登できなくて悔しかったですが、優勝がわかって嬉しかったです。BJC、LJCと良い結果を残すことができたので、この流れに乗ってW杯や他の大会でも頑張っていきたいと思っています。今回久しぶりにたくさんの方々に直接声援をもらうことができて、背中を押していただきました。いつもだったら落ちてしまっていたようなところでも、声援のおかげもあって、登ることができたのだと思います。 大会結果 男子 優勝:吉田智音 34+(前ラウンド5位)2位:樋口純裕 34+(前ラウンド7位)3位:藤井快 33+ 女子 優勝:森秋彩 392位:野口啓代 37+3位:中川瑠 36+photo by アフロtext by 金子修平
-
freestyle絶対王者が100点を叩き出す。Ko-sukeがJFFC3連覇達成2021.03.27絶対王者が、再び後進を突き放した。日本一の座は揺るがない。 Ko-sukeが、フリースタイルフットボール日本一決定戦「Japan Freestyle Football Championship 2020 supported by COMP(JFFC 2020 supported by COMP)」で、大会4回目の優勝を果たし、3連覇を達成した。 同大会は、3月27日(土)に東京・SOUND MUSEUM VISIONで開催された。オンライン予選を勝ち抜いた8名が出場し、日本一の座をかけてトーナメントで凌ぎを削った。 トップ8では、初戦から王者のKo-sukeが登場した。SYUN-YAに3-0でストレート勝ちし、順当にトップ4進出を決めた。また、最年少・13歳のしゅんぺーは、前回大会準優勝のIbukiに敗れている。 しゅんぺー / photo by HAMA SHOW トップ4に残ったのは、Ko-suke、Yu-ri、Ibuki、AKIの4名だ。Yu-ri以外は前回大会(2019年)のトップ4と同じ顔ぶれが揃った。 Ko-suke vs Yu-riは、Yu-riが変則的なエアームーブで攻めたが、Ko-sukeが安定感のあるフローでねじ伏せた。Ibuki vs AKIは、両者ともに果敢なチャレンジを見せるも、ドロップが目立つ。ジャッジが悩み抜いた末、Ibukiが2-1の僅差で勝利した。 Yu-ri / photo by HAMA SHOW 決勝は、2大会連続でKo-suke vs Ibukiの対戦となった。互いにここまで温存したムーブを出し合い、真っ向勝負を挑んだ。世界トップレベルの一戦に、会場は声援禁止の中でも盛り上がりを見せる。熱戦の末、Ko-sukeが王座を守り抜いた。 Ibuki / photo by HAMA SHOW Ko-suke / photo by HAMA SHOW Ko-sukeは「優勝するのは毎回厳しい。特に3連覇の1年目(2018年)は、社会人として時間的な制限があった。日本は年々レベルが上がっていて、工夫しないと勝てない。前回と前々回は良い準備ができなかったが、今回は納得したパフォーマンスを出せるように準備してきた。今日の決勝は、自分に100点をあげたい」と喜びを語った。 また、ヘッドジャッジのYASUは「会場の独特な雰囲気もあって、選手はやりづらさがあったと思う。その中で、決勝は一番盛り上がるバトルだった。Ibukiは良いムーブを見せていたが、Ko-sukeがさらに進化していた。彼を超える存在が出てきてほしい」と、今後のシーンに期待を寄せた。 大会結果 優勝:Ko-suke準優勝:Ibuki3位:Yu-ri4位:AKIベスト8:SYUN-YA、TOMMY、しゅんぺー、sena ■Women's Edition 優勝:miharu準優勝:hafuri ■Kids Edition 優勝:あらた準優勝:Shihaya photo by HAMA SHOW 文・田中 紘夢
-
parkourTHE MOMENTS of「Parkour Top of Japan 2021 in 淡路島 presented by Xperia」 ギャラリーを公開!2021.03.26全国から淡路島に集結したトップトレーサーによって争われた、パルクール・フリースタイル日本一を決める大会「Parkour Top of Japan 2021 in 淡路島 presented by Xperia」。その熱戦の様子を伝えるギャラリーを公開。トレーサーひとりひとりの個性や、超人的なアクロバットに注目してほしい。 THE MOMENTS of Parkour Top of Japan 2021 in 淡路島 presented by Xperia オブスタクル / photo by Kazuki Murata 会場の様子 / photo by Kazuki Murata 中村莉來 / photo by Kazuki Murata 牧野晃樹 / photo by Kazuki Murata 山本華歩 / photo by Kazuki Murata 木本登史 / photo by Kazuki Murata 泉ひかり / photo by Kazuki Murata 勝乗志音 / photo by Kazuki Murata 永井音寧 / photo by Kazuki Murata 朝倉聖 / photo by Kazuki Murata 鈴木智也 / photo by Kazuki Murata 朝倉聖 / photo by Kazuki Murata 抱擁を交わす鈴木智也と朝倉聖 / photo by Kazuki Murata 抱擁を交わす山本華歩と永井音寧 / photo by Kazuki Murata 写真左から優勝:朝倉聖、永井音寧 / photo by Kazuki Murata 写真左から2位山本華歩、優勝永井音寧 / photo by Kazuki Murata 写真左から3位勝乗志音、4位鍬崎竜也、6位牧野晃樹、2位鈴木智也、優勝朝倉聖、5位大貫海斗 / photo by Kazuki Murata 写真左からTEN、898、荒本英世 / photo by Kazuki Murata 写真左から実況・北條瑛祐ABCテレビアナウンサー、解説・YUUTAROU、特別ゲスト・ZEN / photo by Kazuki Murata ラストアイドル(写真左から岡村茉奈、大森莉緒、山本愛梨) / photo by Kazuki Murata 「Parkour Top of Japan」出場選手 / photo by Kazuki Murata 朝倉聖 / photo by Kazuki Murata photo by Kazuki Muratatext by 金子 修平
-
[PR] parkour【REINA × Xperia 特別インタビュー】REINAが回想するパルクールとの出会いとシーンの変遷2021.03.22日本体操協会のパルクール公式スポンサーであり、そのシーンをこれまでサポートし支え続けてきたXperiaと、アクションスポーツ・ストリートカルチャー総合メディアFINEPLAYがタイアップし、連載企画で注目のトレーサーに焦点を当てていく。パルクール、トリッキングと幅広く活躍し、「KUNOICHI」への出演経験もあるREINAを取り上げてインタビュー。 REINAが、回想するパルクールとの出会いやシーンの変遷について、そしてソニーの最新スマートフォンである「Xperia 1 II」に触れてみた感想について話を聞いた。 https://youtu.be/yH-xtYrQM6w ―パルクールを始めたキッカケREINA:中学校3年生の頃からカナダ・モントリオールのサーカス学校に通い、その頃からパルクールの存在は知っていたのですが、自分には関係ないことだと思っていました。その後「KUNOICHI」に出演したことがきっかけで、その練習会に出るようになりました。そこで泉ひかりさんと仲良くなり、パルクールに誘われたことが、パルクールを始めたきっかけです。 写真提供:株式会社PKM/16歳の頃 —ホームタウン(練習場所)REINA:トリッキングもやっていて、そちらには固定の練習場所があるのですが、パルクールは固定の練習場所はありません。練習場所は街中であったり、公園であったりとバラバラですね。—尊敬しているトレーサーREINA:尊敬しているトレーサーは大阪のCorkyです。パルクール、トリッキングどちらの分野でも世界的に活躍していて、憧れの存在です。—現在の女子パルクールシーンについてREINA:まだパルクールを始めて3年ほどではあるのですが、確実にパルクール人口は増えていて、その中で女の子のトレーサーも徐々に増えています。練習環境も格段に良くなっていると感じています。 「Xperia 1 II」で撮影 —大会で自分が意識していることREINA:コンペティションはまだ出たことはないのですが、今後コンペティションにも挑戦していきたいと思っています。—自身のスタイルについてREINA:クリエイティブでトリッキーな動きを得意としています。将来的には苦手なジャンプや純粋移動術をはじめとした移動系の動きもバランスよくできるようになりたいと思っています。 「Xperia 1 II」で撮影 —目指すトレーサー像REINA:男女ともに尊敬されるトレーサーになりたいです。将来、自分に憧れてパルクールを始めたという人が出てきてくれたら嬉しいです。—今後チャレンジしたいことREINA:新型コロナウィルス感染症の流行が収束したら、北海道から沖縄までパルクールを通じた旅行を行いたいと思っています。各地方のコミュニティでトレーサーの個性を感じたり、日本全国のさまざまなスポットの地形を攻略して成長したいと考えています。—自身にとってパルクールとは?REINA:自分にとってのパルクールは「一番自分と向き合って成長できる場所」です。自分と向き合わないと上手くならないことが多く、自分の動きを見返すことでその時の自分の気持ちが分かることもあります。パルクールを通じて今後も成長し続けたいと思います。 「Xperia 1 II」で撮影 Xperiaについて —「Xperia 1 II」の第一印象は?REINA:縦長のシンプルなデザインからは、スマートフォンというよりも高機能なギアのような印象を受けました。また、「Xperia 1 II」は高速連写機能がすごいという話を聞いていたので、カメラ機能が高性能だというイメージを持っていましたね。—「Xperia 1 II」を使用した感想は?REINA:今回、Cinematography Proという機能を使って映像を撮影したのですが、色味がとても奇麗に出ていると感じました。自分が普段使っているスマートフォンでは出せない鮮やかで柔らかい光の味を出すことができます。「Xperia 1 II」のCinematography Proを使って作品を作ってみたいですね。 「Xperia 1 II」で撮影 —トレーサーにとって「Xperia 1 II」で便利だと思う機能は?REINA:トレーサーにとって「Xperia 1 II」で便利だと思うのは高速連写機能です。トレーサーは練習の際、動きのチェックのために連写で撮影した写真をコマ送りで確認することがあります。そのため、ブレることなく激しい動きも細かく撮影しきることができる「Xperia 1 II」はトレーサーにとって非常に便利なギアになると思います。 「Xperia 1 II」で撮影 ソニーのシネマカメラブランド「CineAlta」シリーズの技術を継承した「Xperia 1 II」の「Cinematography Pro」でパルクールをシネマティックに撮影しよう ■「Cinematography Pro」でトレーサーのスタイルと魅力をひきだすシネマティックな映像が撮れる!「Xperia 1 II」の動画撮影機能はソニーのシネマカメラブランド「CineAlta」シリーズで培った技術を継承。革新的技術で業界を牽引してきたプロフェッショナルカメラのノウハウを惜しみなく注入したシネマ撮影専用機能「Cinematography Pro」で手軽にシネマティックな映像が撮影できます。映画業界の標準フレームレートである24fps動画撮影が可能、4K HDR動画撮影や、10bit記録にも対応しており、階調豊かな表現を実現。「CineAlta」で培った画作りのノウハウを8つのオプションから選択して撮影できる「Look」機能やシネマカメラの操作感を再現するインターフェースで、トレーサーの魅力をひきだす映像作品を作り上げることができます。「Cinematography Pro」を使ってあなただけのクリエイティブな映像作品を撮影してみましょう。 —今後の活動についてREINA:現在ではパルクールにおける競技の側面にスポットライトが当てられることが多いですが、マイナーカルチャーであるパルクールの成長には必要不可欠なものだと考えています。私はカルチャーも競技の側面に対してもさまざまなことを吸収して行きたいと考えています。そしてまずは、これまで出場することがなかった大会にチャレンジすることを目標に頑張って行きたいと思います。 Xperia 1 II