H.L.N.ASTORE 湘南店はプロサーファー佐藤和也とサーフプロフェッショナルスタッフ契約を結んだことを発表。
佐藤和也は、H.L.N.A STORE 湘南店の販売スタッフとして、プロサーファー・シェイパー・コーチで培ったノウハウを直接お客様に伝えていく役割を担う。
ボードスポーツ業界がどうしたら環境が良くなるのか、を強く意識し、リアルにプレーする人たちが考え、実際に行動を起こすというH.L.N.Aの特徴を体現する形となった今回の契約。
H.L.N.Aは今後、サーフィンだけでなく、スケートボード、スノーボードの分野においても同様の取り組みを目指していく。
佐藤和也について
10代のころからコンテスト、フォトトリップなど世界を渡りサーフシーンの最前線で活躍。
コンテスト引退後は、Y.U surfboards のシェイパー・サーフコーチとして自らの手でサーフボードを創り、
その道具で理想のラインを波へ切り刻む。大好きな波乗りの楽しさ、奥深さ、そして偉大な自然とのコネクトを日々追求中。
サーファーとしての思いを次世代に伝えるサーファーのひとり。
その人望から茅ヶ崎出身のプロサーファー達の兄貴分的な存在としても有名。現在、湘南の販売スタッフとして自らの経験を活かし、人と人との繋がりを通して、関わる皆様に笑顔になってもらうことに夢中になっている。
[本件に関するお問い合わせ先]
H.L.N.A STORE Shonan
Tel/0466-38-6120
営業時間:10:00~21:00
神奈川県藤沢市辻堂神台 1-3-1 スーパースポーツゼビオ内 テラスモール湘南 3F
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FINEPLAYはアクションスポーツ・ストリートカルチャーに特化した総合ニュースメディアです。2013年9月より運営を開始し、世界中のサーフィン、ダンス、ウェイクボード、スケートボード、スノーボード、クライミング、パルクール、フリースタイルなどストリート・アクションスポーツを中心としたアスリート・プロダクト・イベント・カルチャー情報を提供しています。
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danceストリートダンサーの祭典が再び両国国技館に!シーン最高峰のバトルイベント「マイナビDANCE ALIVE HERO’S 2020&2021 FINAL」2021.04.212021年4月17日から18日の2日間にわたり、日本ストリートダンスの最高峰ともいえるバトルイベント「マイナビDANCE ALIVE HERO’S 2020&2021 FINAL」が行われた。新型コロナウイルスの影響で、2020年のFINALが昨年から延期され、2年分のファイナリストが東京の両国国技館に集まり、熱いバトルを繰り広げた。会場では入退場ゲートや客席でのウイルス対策が万全に行われた状態で、久しぶりのオフラインダンスバトルを楽しむオーディエンスの姿も多く、DANCE ALIVE HERO’Sを皮切りに、2021年はダンスシーンでリアルなオフラインイベントが再び盛り上がりそうな予感だ。 マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL 4つのSTYLEとキッズ、RIZE(大学生)に分かれたバトルカテゴリでは、多くの注目選手がファイナリストとして出場。24年パリ五輪の新種目であるBREAKでは、過去に世界一の経験も持つISSEIやAMI。HIPHOPでも同じく世界大会へ出場経験を持つ、KYOKAやKENTO。ALLSTYLEでは、これまでのDANCE@LIVEにチャンピオンとして名を刻む、GUCCHON、WAPPER。世界的にもストリートダンスのレベルが高い日本において、各シーンのトップダンサーが集結したまさにハイレベルなバトルイベントであった。 JJがKIDS2連覇を達成!HIPHOPは世代を象徴する決勝戦に マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL 17日土曜日に行われたのは、HIPHOP、HOUSE、RIZE(2020年)、KIDS(2020年)の4カテゴリ。KIDSではディフェンディングチャンピオンのJJがFINALまで順当に駒を進め、2019年大会の勢いそのままに勝利し、圧巻の2連覇。HIPHOPではSEEDダンサーでとして登場したKYOKAと、実績のあるダンサーを次々と倒しFINALまで勝ち上がったYUUSHINがマッチアップ。Z世代のHIPHOPシーンを象徴するバトルとなった戦いはKYOKAが勝利。初優勝を決めた。その他、HOUSEは過去ファイナリストとして出場経験のあるRYOakaDJ226が優勝。RIZEは拓殖大学(ハムマヨ協同組合)が優勝した。 マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL WAPPERが3度目の制覇、ISSEIは4度目のチャンピオンに 18日の日曜日は、BREAK、ALLSTYLE、RIZE(2021年)、KIDS(2021年)の4カテゴリでチャンピオンが決まった。歴代の優勝者やシーンのレジェンドに加え、20代以下の若手もクレジットしているALLSTYLEのFINAL。世代を超え、ジャンルも超えたバトルが展開された。優勝は2014年以来の覇者となったWAPPER。過去、何度もこの舞台に立ったレジェンドダンサーが「DANCE ALIVE 大好きなんですよ。DANCE ALIVE に人生変えてもらった。」と力強くコメント。 マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL パリ五輪の新種目BREAKはメディアの注目度も高く、3年後の日本代表候補となり得る選手も多く出場した。ベスト4を決めるQUARTER FINALでは、どちらも世界大会で優勝した経験を持つ、ISSEIとAMIの世界チャンピオン同士のバトル。そのバトルに勝利したISSEIは、決勝でブレイキンシーンを築き上げてきたベテランKAZUHIROにも勝利し、DANCE ALIVEでは4回目の優勝を達成した。 マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL KIDSは、こちらもグローバルなブレイキンシーンで活躍するTSUKKI が優勝。RIZEは立教大学が初優勝を成し遂げた。 マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL 今回、2日間に渡って2020年、そして2021年のファイナルが行われたDANCE ALIVE。ストリートダンスシーンにとっても、約2年ぶりに行われる有観客、かつ大規模なイベントとなった。2021年はリアルにダンサーの熱量や迫力が伝わり、オフラインで声援を送ることが出来る環境でのイベントが増えてほしい。2024年パリ五輪の新種目として正式に決まったブレイキンや、プレイヤーだけでなく一般層の取り込みに成功しているD Leagueなどをきっかけに、ストリートダンスが世の中に普及しているといえるだろう。DANCE ALIVEのようなイベントが増え、シーンにリアルなダンスコミュニケーションが戻ってくることで、さらなる盛り上がりに期待したい。 Result HIPHOPKYOKA (RUSHBALL) マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL HOUSERYOakaDJ226 (SYMBOL-ISM / Family Tree) マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL 2020 KIDSJJ マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL 2020 RIZE拓殖大学 (ハムマヨ協同組合) マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL BREAKISSEI (KOSÉ 8ROCKS / FOUND NATION / 九州男児) マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL ALL STYLESWAPPER (NewSchoolOrder / BORN 2 FUNK) マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL 2021 KIDSTSUKKI (MB CREW) マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL 2021 RIZE立教大学 (学びの精神) マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL THE MOMENTS of 『 マイナビDANCE ALIVE HERO’S 2020&2021 FINAL 』 マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL マイナビDANCE ALIVE HERO'S 2020&2021 FINAL text by Shin Akiyama
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skate「あきらめない」下半身不随の危機から復活したプロスケートボーダー清水 潤 不屈のストーリー骨折、靭帯断裂、半月板損傷、頸椎脊髄損傷、右膝軟骨・滑膜損傷ーー。幾度となく選手生命の危機に陥るも、不死鳥のごとく復活してきたプロスケートボーダー清水潤。数々の“受傷歴”を持つ彼にとって、スケートボードとはいったい何なのか。39歳にして現役でありつづけるスケーターの不屈のストーリーを追った。 怪我とともに歩んできたスケートキャリア 大会の前日、記憶喪失に 清水潤の“受傷歴” 「怪我っていうのはスケーターには付き物なんですけど、とくに僕は多いんですよ。何でかはわかりませんが」 現役のアスリートでありながら、会社員、日本スケートボード協会九州支部長、そして東京オリンピック日本代表強化選手選考会ジャッジを兼任するマルチプレイヤー、清水潤。 39歳のいまでこそスケーターとして生活しているが、中学校に上がるまで、清水は典型的な野球少年だった。 「あれは中学2年生の夏だったかな。『お前、毎日ジャージ着てばっかりでダサいから、たまにはスケボーでもやってみろ』って兄貴から言われたんです。最初は面倒くさかったんですが、はじめてみたら思いのほか楽しくて!」 そう言って清水は子どものように笑った。 清水にとってスケートボードは「衣食住・滑」 これまで経験したことのない、自分の心と対話しながらスタイルを極めていくスポーツ。野球とは異なる魅力を持つスケートボードに、清水は没頭していった。 「プロスケーターになりたい」突然そう言うと、清水は周囲の反対を押し切り、野球を辞めた。 「プロ野球選手を目指していましたが、スケートに出合ったのを機にスッパリと進路変更しました。僕は野球一筋で通っていたので、周りからはビックリされましたね」 野球とは異なる魅力を持つスケートボードに、清水は没頭していった スケート道を突き進んでいた清水に事件が起こったのは、2004年。神奈川県で行われたプロへの登龍門、「全日本アマチュア選手権大会」の会場に着いた矢先だった。 前日の練習時に転倒し、顔面をバンクに強打した清水は、一時的に記憶喪失となった。 「友人の話によると、コケて顔面を打った直後に白目をむいて痙攣しはじめたらしいです。病院で正気を取り戻すまで、同じ質問をずっと繰り返していたと。どう見ても、大会出場は絶望的でした」 しかし翌日、医者と友人の制止を振り切って出場を決めた清水は、結果、並みいる強豪をおさえて8位にランクイン。つづいて、1ヶ月後に行われたプロアマ戦でも5位に入賞し、夢のプロデビューを果たした。 「話しかけてくる人の顔も名前も一切思い出せなかったのですが、スケートの調子だけはよくて。不思議なことに、身体の動かし方は覚えてたんですよ。それが分かったので、あきらめるという発想はありませんでした」 事故で下半身不随の危機に 順調にプロスケートボーダーとしてのキャリアを積みはじめた スケートボード専門誌『TRANSWORLD SKATEboarding JAPAN』をはじめとしたメディア掲載、日本スケートボード協会九州支部長の就任など、清水は順調にプロスケートボーダーとしてのキャリアを積みはじめた。 「そのころ、妻のお腹に新しい命が宿ったこともわかったんです。幸せな日々でした」 しかし、2012年、スケートのビデオパート(トリックやラインを集めた映像)の撮影中に再び事件が起こる。 「ストリートのカーブ(縁石)でグラインドをしたら引っかかってしまって。前方にあった木の幹につっこんで、頭を10針も縫いました」 半年後、手足の痺れと首の痛みを感じた清水は、病院にかかることになる。そこで医者に告げられたのは、受け入れがたい現実だった。 「下半身不随の危機だと言われました。脊髄が潰れていると。歩けていることが奇跡で、本来なら日常生活すらままならない状態だったそうです」 ストリートのカーブ(イメージ) これまで日常だったスケートボードが、突然奪われる苦しみ。将来を悲観し、清水はしだいに塞ぎ込むようになる。食事が喉を通らなくなり、70㎏近くあった体重は59㎏にまで落ちた。 「いまだから打ち明けますが、当時は死ぬことも考えましたよ。でも死ななかったのは、妻と子どもの存在があったからです」 家族や友人、スポンサーの支えで清水はメンタルを持ち直した。しかし、会社を休んで療養するという考えはなかった。 「スケートで怪我をしたことは、勤め先には言いませんでした。言えば二度とできなくなりそうな気がして。バカだと思われるかもしれませんが、スケートボードだけは取り上げられたくなかったんです。頭には包帯を巻いて出勤していたので、おそらくバレていたとは思いますが」 そう語る清水の表情から、当時の心境が読みとれた。 損傷を受けた脊髄のMRI写真 安定を保つため、首周りにテーピングを施した。家では飲食やトイレの時間以外、ベッドで横になって過ごした。そのベッドも、10万円ほどかけて新しくした。 「真偽はともかく、首を治すのによさそうだと感じたものは、すぐ生活に取り入れました。医者には引退勧告されたけど、簡単にあきらめたくなかったんです」 地道な努力が芽を出したのは、発症後6ヶ月が経ったころだ。清水は手足の痺れが和らいでいることに気づき、病院に駆け込んだ。 その回復力に、医者も目を見張った。「こんなことはありえない。奇跡だ」そう言われた。 「1年が経つころには、いままでの痛みが嘘のようになくなりました。ベタな言い回しですが、暗闇の中に一筋の光が射したような、そんな気分でしたね」 清水がスケートシーンへの復活を果たしたのは、発症から1年半後のことだった。 スポーツキャリアをあきらめないで スケートボードで培った不屈の精神 https://www.youtube.com/watch?v=grClzuAvLsE FRONT LINERS "FEEL THE COME BACK / JUN SHIMIZU" プロスケートボーダーとして再始動した清水が取りかかったのは、怪我で中断していたビデオパートの製作だった。再収録と編集に4年を費やし、2018年に公開。作品はスケートシーンで大きな反響を呼び、翌年、スケートボードブランド「DORCUS GRAPHITE WOOD」からシグネイチャーモデルのリリースが決定した。 「怪我でスケートができなくなっても、スポンサーが外れることはなかった」という清水。 「ここに至るまでのストーリーとか、人間性を買ってもらえている気がします。そう言う意味でも、あの日にスケートをあきらめなくて本当によかった」 DORCUSからリリースされたシグネイチャーデッキ(中央本人) 現在、半月板損傷、そして軟骨・滑膜損傷による右膝の故障を抱えている清水。PRP-FD療法(血小板から抽出した「成長因子」を注射投与することで、身体の自己修復能力を一時的に高め、痛みや機能の改善を図る最先端医療)の経過観察中だ。 通算、三度目の大怪我となるが、インタビュー中に本人から焦りを感じることはまったくなかった。 右膝の半月板損傷、軟骨・滑膜損傷 「スケートボード人生、いろいろと乗り越えてきましたからね。ここで焦ってもしょうがないことは知っているので、気長にいきますよ。あきらめなければまた復活できると信じているので」 その不屈の精神は、どう作っているのか。 「心を健康に保つこと。もうひとつは、あきらめないこと」清水はそう答えた。 「でもそのためには、周囲の協力が必要不可欠です。困ったときは一人で抱え込まず、周りに助けを求めること。そして、その人たちへの感謝を忘れす、自分のモチベーションはは自分で調整する。シンプルですが大切なことです。僕の場合は、それらをスケートボードで学んできました」 苦しんでいる人に「がんばれ」を届けたい 「あきらめるな、がんばれ」を届けたい 「スケートボードで社会を学んできた」 そう繰り返す清水は、社会支援を目的とした組織を運営・管理してきた。そのひとつが、東日本大震災をきっかけに立ち上げた「PRAY FOR GRIP」だ。 被災地の復興支援のために興したイベントに、10万円の寄付が集まった。それが皮切りとなり、千葉県を襲った台風15号や佐賀県の集中豪雨の被災地など、助けを必要としている場所に清水は支援を行うようになった。 「スケーターってアンチソーシャルな側面がひとつとしてあるじゃないですか。それもクールなんだけど、社会貢献をするようなブランドがあってもいいんじゃないかなって。いままで周りに助けられてきたから、今度は僕の番かなって」 そう言うと清水ははにかんだ。 「人生を振り返ると、周りからの声援以上に、自分で自分を励ましてきた歴史がある。そんな気がしています。その『あきらめるな、がんばれ』という気持ちを、いま困っている人たちに形として届けたい。そんな思いでやっています」 「NEVER GIVE UP」 他のアクションスポーツと同じように、怪我をしやすいスケートボード。そんなストリートスポーツプレイヤーのために、清水は現在、構想を練っているという。スケートボーダーに向けた支援機構、その名も“スケーターファウンデーション”だ。 積み立てたお金を、怪我や病気で苦しんでいるスケートボーダーの治療に役立てる。それこそ、自身の経験に基づいた「NEVER GIVE UP」精神の具現化だ。 「そのためにはまず、自分の膝を治さなくちゃいけませんね」そう話しながら、目を細める清水。 屈託のない笑顔の裏に、不屈の闘魂を垣間見た気がした。 清水 潤プロフィール 1981年生まれ。福岡県在住のプロスケートボーダー。スケート中の事故で頸椎脊髄を損傷し、下半身不随の危機にさらされる。約1年半のリハビリを経て怪我を克服し、2014年に復帰を果たした。30代後半となったいまもプロスケーターとして現役をつづけるかたわら、「日本スケートボード協会九州支部長」や「東京オリンピック日本代表強化選手選考会ジャッジ」を勤めるなど、その活動は多岐にわたっている。スポンサーはDORCUS、LAKAI、THE BEARINGS、ROYAL TRUCKS、PRAY FOR GRIP、ESACAPO、MURASAKI SPORTS、DNA OPTICS、BRC、FLC。 text by : 佐藤稜馬photo 提供:清水潤
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surfSurf Voice Vol.9「1960年代のサーフファッション」2021.04.061966年、日本サーフィン連盟が結成されて初めて、第一回サーフィン大会が千葉県の鴨川ビーチで開催された。 現在のように、競技サーフィンが個人のパフォーマンスを評価する時代ではなく、クラブ単位の優越をつけることの方が重要で、湘南、千葉、東京のローカルコミュニティーのプライドを賭け、サーファーたちはそれぞれの地域性(スタイル)の違いを主張しあった。 各クラブは、ネーミングの由来にこだわり、クラブワッペンを作っては、手作りのトランクスや、スイングトップの胸にパッチして楽しんだ。 我々の所属していた鎌倉の少年チームは、”サーフィンメイツオブグレミー”と称し、日本サーフィン連盟に登録された最年少(最強)チームであった。 幸い、我々の住んでいた場所から横須賀のマリンベースが近く、米兵相手のワッペン屋が軒を連ねるどぶ板通り――日が落ちると、怪しい飲み屋街に変身するエリヤ――になんども通い、気に入ったデザインができるまで、妥協せず日参したのである。 1964年の東京オリンピック前後の日本には、まだファッションと呼ばれる、人を夢中にさせるトレンドが無く、なんでも自前で揃えるのが常だった。 当時は、くたびれたUSサーファーマガジンが唯一の情報源。まわりに物がない中で、”あーでもない、こーでもない”と大いに妄想を拡げたのだった。 T-シャツ編 ビーチで友達になった米兵の子供が持ってきてくれた、ビニール袋に3枚入った”フルーツオブザルーム”。今思えば薄手の安物、洗うとすぐ目が透けてしまう代物だったが、友人と分けて愛用した。 洗濯は自身で手もみ洗い、大事に大事にファッションした。ちなみに真っ白で、スクリーで”どこどこ”サーフボードのメーカープリント入りではなかった。 それまでは、グンゼの肌着しかなかった。肌着を堂々とストリートファッションにしたのは、僕らサーファーだった。 スニーカー編 国産では運動靴と呼ばれるものしか無かった。それでもバスケットシューズだけはクールだった。テニスシューズも頑張っていたが、USサーファーマガジンの広告に出ていたローカットのユニロイヤルには、足元にも及ばなかった。 そっ!そういえばデュークカハナモクの花柄プリントは究極だった。友人のつてで回ってきた時は、サイズは少し窮屈だったけど、本物を手にし、小躍りして喜んだ。 ところが、勝浦のサーフィンコンテストで、畑のあぜ道に止めておいた車が車上荒らしに遭い、このスニーカを盗られてしまった。僕は、ショックで呆然としながら鎌倉へ戻った。 数ヶ月が経ち勝浦署から連絡が入り、「物が出た」と言うのでわざわざそのために出かけたが、その変わり果てた姿に愕然とした。持ち帰ったが、とても履けるような状態ではなかったので、心を鬼にして捨てることにした。 トランクス編 これはサーファーの究極のファッションアイテム。でも残念ながら、僕はハングテンやジャンセンを手に入れることはできなかった。 なので、母親に頼み込んで作ってもらった。中学校からの帰り道、鎌倉の駅前の生地屋をチェックして回り、材料を手に入れた。ベルクロテープがない時代、スチール製のファスナーは砂をかみ、塩水でいじめられ、すぐに機能を果たさなくなったが、気分は十分に盛り上がって、意味なく学生鞄の中に忍ばせていた。 この”デガワママ メイド”のトランクスはカッコよかったし、仲間に珍重された。ただし綿素材のため乾きが悪く、いつまでも湿った砂が絡み付いていた。 ワックス編 だいたいサーフィン専用のワックスというのは、世界的にもめずらしく、ボードには工業用パラフィンを利用していた。だが、そのことを知らない鎌倉のサーフィン少年隊は、仏壇のろうそくがサーフィンワックスの代わりだった。 それも極太のやつで、ゴシゴシデッキにワックスがけ、誰かが薬局でパラフィンを入手できると知るまで、普通に使っていた。仏壇のろうそく消費量は膨らむばかり。これには両親も呆れ果てていたが、そんなこと御構い無しに、家から持ち出してはワックスアップに余念がなかった。 まっ、日本の60年代のサーフィンシーンは、こんなものだった。今じゃーネットで、何から何まで揃う時代……。でも何か充足感がないな~と思う今日この頃だ。 文・写真提供:出川三千男
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climb【スポーツクライミング】森秋彩が連覇達成! 吉田智音が初優勝「LJC2021」2021.03.283月26日から3月28日の3日間、千葉県印西市・松山下公園総合体育館においてスポーツクライミング・リード競技日本一を決める大会「スポーツクライミング第34回リードジャパンカップ」(以下、「LJC2021」)が約1年ぶりとなる有観客試合で開催。3月28日、男子女子ともに決勝が行われ、男子では吉田智音(奈良県立青翔高等学校)が、女子では森秋彩(茨城県山岳連盟)が優勝を果たした。吉田はLJC初優勝、森は自身2度目の連覇、通算4度目の優勝となる。 男子決勝 男子決勝には藤井快(TEAM au)が首位で進出したほか、リードを得意とするベテラン樋口純裕(佐賀県山岳・スポーツクライミング連盟)、天笠颯太(日本大学)、田中修太(神奈川大学)、吉田といったルーキー勢が進出。前大会王者の西田秀聖(天理高等学校)は惜しくも予選敗退となった。決勝では、吉田と樋口がともに高度34+、カウントバックで吉田が首位。勝負の行方は最終クライマーである藤井のクライミングに託される。藤井は惜しくも高度33+でフォール。吉田が首位を守り、自身初の優勝を飾った。 女子決勝 女子決勝へは、準決勝でTOPホールドに達した森が首位通過。谷井菜月(橿原学院高等学校)が高度40で森に続き2位で決勝進出。野口啓代(TEAM au)が高度36で決勝へ進出したほか、阿部桃子(相模女子大学高等部)、平野夏海(国士舘高等学校)、柿崎未羽(東京都山岳連盟)、中川瑠(金蘭会高等学校)といった若手が決勝へ進出した。伊藤ふたば(TEAM au)、野中生萌(XFLAG)は惜しくも上位8名に入れず準決勝で敗退となった。女子決勝では、野口が貫禄の高度37+で首位に躍り出る。後半、谷井は惜しくも高度34+で落下。野口、中川の表彰台が決定し、勝負は最終登攀者であるディフェンディングチャンピオン・森の登り次第となる。森の登攀、高度34から残り30秒で怒涛の快進撃をみせ逆転。タイムアップとなったが高度39を記録。自身2度目の連覇、通算4度目の優勝を獲得した。 優勝者コメント 男子優勝:吉田智音 まだ信じられないという気持ちでいっぱいです。1位を狙ってはいましたが、5位までに入ることができればと思っていたので本当に驚いています。皆さんのバルーンでの声援がとても力になりました。今後はW杯の決勝にコンスタントに残れる選手になっていきたいです。 女子優勝:森秋彩 決勝はかっこいい課題だったので完登したいと思っていました。だからこそ完登できなくて悔しかったですが、優勝がわかって嬉しかったです。BJC、LJCと良い結果を残すことができたので、この流れに乗ってW杯や他の大会でも頑張っていきたいと思っています。今回久しぶりにたくさんの方々に直接声援をもらうことができて、背中を押していただきました。いつもだったら落ちてしまっていたようなところでも、声援のおかげもあって、登ることができたのだと思います。 大会結果 男子 優勝:吉田智音 34+(前ラウンド5位)2位:樋口純裕 34+(前ラウンド7位)3位:藤井快 33+ 女子 優勝:森秋彩 392位:野口啓代 37+3位:中川瑠 36+photo by アフロtext by 金子修平
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freestyle絶対王者が100点を叩き出す。Ko-sukeがJFFC3連覇達成2021.03.27絶対王者が、再び後進を突き放した。日本一の座は揺るがない。 Ko-sukeが、フリースタイルフットボール日本一決定戦「Japan Freestyle Football Championship 2020 supported by COMP(JFFC 2020 supported by COMP)」で、大会4回目の優勝を果たし、3連覇を達成した。 同大会は、3月27日(土)に東京・SOUND MUSEUM VISIONで開催された。オンライン予選を勝ち抜いた8名が出場し、日本一の座をかけてトーナメントで凌ぎを削った。 トップ8では、初戦から王者のKo-sukeが登場した。SYUN-YAに3-0でストレート勝ちし、順当にトップ4進出を決めた。また、最年少・13歳のしゅんぺーは、前回大会準優勝のIbukiに敗れている。 しゅんぺー / photo by HAMA SHOW トップ4に残ったのは、Ko-suke、Yu-ri、Ibuki、AKIの4名だ。Yu-ri以外は前回大会(2019年)のトップ4と同じ顔ぶれが揃った。 Ko-suke vs Yu-riは、Yu-riが変則的なエアームーブで攻めたが、Ko-sukeが安定感のあるフローでねじ伏せた。Ibuki vs AKIは、両者ともに果敢なチャレンジを見せるも、ドロップが目立つ。ジャッジが悩み抜いた末、Ibukiが2-1の僅差で勝利した。 Yu-ri / photo by HAMA SHOW 決勝は、2大会連続でKo-suke vs Ibukiの対戦となった。互いにここまで温存したムーブを出し合い、真っ向勝負を挑んだ。世界トップレベルの一戦に、会場は声援禁止の中でも盛り上がりを見せる。熱戦の末、Ko-sukeが王座を守り抜いた。 Ibuki / photo by HAMA SHOW Ko-suke / photo by HAMA SHOW Ko-sukeは「優勝するのは毎回厳しい。特に3連覇の1年目(2018年)は、社会人として時間的な制限があった。日本は年々レベルが上がっていて、工夫しないと勝てない。前回と前々回は良い準備ができなかったが、今回は納得したパフォーマンスを出せるように準備してきた。今日の決勝は、自分に100点をあげたい」と喜びを語った。 また、ヘッドジャッジのYASUは「会場の独特な雰囲気もあって、選手はやりづらさがあったと思う。その中で、決勝は一番盛り上がるバトルだった。Ibukiは良いムーブを見せていたが、Ko-sukeがさらに進化していた。彼を超える存在が出てきてほしい」と、今後のシーンに期待を寄せた。 大会結果 優勝:Ko-suke準優勝:Ibuki3位:Yu-ri4位:AKIベスト8:SYUN-YA、TOMMY、しゅんぺー、sena ■Women's Edition 優勝:miharu準優勝:hafuri ■Kids Edition 優勝:あらた準優勝:Shihaya photo by HAMA SHOW 文・田中 紘夢
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