2023年7月、アメリカ・コロラド州にて開催されたダブルダッチの世界大会「DOUBLE DUTCH CONTEST WORLD 2023」。
コロナ禍によって4年ぶりとなった、プレイヤーたちが待ち焦がれた実地での開催。
見事世界一のタイトルを掴み取ったのはガールズチーム「Mrs.DOUBLE DUTCH」(ミセス ダブルダッチ)。
チーム結成は8年前。彼女たちがどのような道のりを辿って“世界一”となったのか。
これまでの歩みと今大会へ懸けた思い、そしてこれからについて訊いた。
ABOUT “Mrs.DOUBLE DUTCH”
10名の女性ダブルダッチプレイヤーで結成されたチーム。各メンバーがプレイヤーのみならず、メディア・モデル活動や、大会でのゲスト・審査員など、多方面で活躍している女性ダブルダッチチームのパイオニア。
今回の世界大会にはこのうち7名が出場。

(写真提供:Mrs.DOUBLE DUTCH)
※以下、記事中ではチーム愛称「ミセス」と表記。
“女性プレイヤーの希望になりたい”
ミセスが結成されたのは2016年。
当時のダブルダッチシーンについてと結成に至った思いについて、リーダーのMISAはこう壊述する。
MISA
「多くのプレイヤーは大学のサークルでダブルダッチに出会うので、卒業というのが一つの分岐点なんですよね。プレイヤーとして続けるか否かという。ですが、当時は女性でプレイヤーとして続けている人が少なかったんです」
「どうにかして女の子たちがプレイヤーとして活躍し続けることができないか。そんな声に触れるたびに考えるようになり、女の子のチームを作ってみることにしました」
そこでMISAを中心に、現メンバー MAYU・MOEMI・HARUNA・SUMIREを含めた7名でMrs.DOUBLE DUTCHが結成された。

(写真提供:Mrs.DOUBLE DUTCH)
MISA
「チームを作ったことに対する責任感はありましたが、私の中ではあくまで実験的な試みでもあったんです。
前例のないチャレンジだったからその先どうなるかも予想できなかったし、当時はプロ以外で同じチームを長く続けている人も多くなかったので。
でも女性のダブルダッチプレイヤーの希望でありたい、可能性を切り拓きたいという思いはありました。そこで『Mrs.DOUBLE DUTCH』と名付けたんです」
確固たる思いを持って走り出したミセス。
結成直後に、彼女たちは国内最大級の大会「DOUBLE DUTCH CONTEST 2016」の国内予選に出場することを決める。
しかし、その結果は17位。本戦出場となる“10位以内”には届かなかった。

(写真提供:Mrs.DOUBLE DUTCH)
MAYU
「“女子だけ”の難しさを感じた部分もありました。今思えば妥当な結果だと思いますが、今にいたるミセスの活動の源流だったというか、そこで私たちに火がついたというか」
HARUNA
「当時、私とSUMIREは大学4年生の卒業間近で忙しい時期だったこともあり、MISAさんがほとんど全ての曲や衣装を準備してくれていたんです」
MISA
「でもミセスを“長く続けていこう”とだけは決めていて、そのためには1人が作った作品でチームを続けていくのは無理だと思ったんです。
チームメイトと関係性を築いて『ここは自分のアイデアなんだ』『この瞬間自分は輝いているんだ』ってことを自覚しながらやらないと長く続けられない」
その後、メンバーそれぞれの活動を経て、2017年の「Double Dutch Delight」では一般部門で優勝を果たすほか、「DOUBLE DUTCH CONTEST」の上海大会に2年連続で出場し、2019年には優勝。
このほか、個々がミュージックビデオの出演やゲストショーケース、アパレル活動や審査員など、多岐にわたって活躍。
“ガールズチーム”としての存在感を確立させていく。
2019年、オリジナルメンバーの一部がプレイヤーとしての活動を終えたこともあり、ミセスとしての活動を継続するべく、AYUKA・KYOKA・REINA・NATSUMI・HARUKAが加入し現体制となる。

(前列) 左から1番目 HARUKA
(写真提供: Mrs.DOUBLE DUTCH)
国内予選に向けて――「ミセス式」のパフォーマンスメソッド
それからしばらく経ち、2023年。
最大級の大会である「DOUBLE DUTCH CONTEST」に再び出場することを決意する。
世界一のためにまず国内予選を制する必要がある。同部門への参加は約120チーム。その中で、まず上位5チームに残らなければならない。

MISA
「今年は久しぶりとなる実地での開催。しかもフルメンバーで大会に出るチャンスは今回を逃すとしばらくないかもしれないと思い、出ることを提案しました。ただ各々の都合もあるし無理はさせたくないから、イエスかノーで答えて、と」
そうして集まったのが今回のメンバーである7名だ。
MISA
「ただ各々仕事や家庭もあって、社会人チームは予定を合わせるのにも一苦労です。だから最初に集まりやすいメンバーでネタ(動きや技)を作って、そこから音を合わせていきました。
MAYUが音のストックを色々持っているので、MAYUが提案して、それを曲編集をやってくれるRisA(※)に伝えて進んでいきました」
(※)RisA
ミセスのパフォーマンス音源を作成していた人物。これまでのミセスメンバーが出場していた別チームの音源も作成するなど、数多くを手がける名曲編者。

(写真提供:Mrs.DOUBLE DUTCH)
同じチームを継続し続けていくメリットも多いが、その反面、期待値がインフレし高いハードルにもなりうる。そんな彼女たちのパフォーマンス作りは、どのように進められていったのか。
MISA
「『みんなが見たいミセス』『メンバーがやりたいミセス』というのはそれぞれ違うと思ったんです。
だから今回、私が『こうしたい』とは極力言わないようにしていました」
SUMIRE
「逆にMISAさんが委ねてくれたからこそ、話し合いは積極的にありました。新メンバーが入ってできることが増えたのもあって、『こういうネタもできる』『これよりこっちの方が良さそう』という感じで」
MAYU
「“ミセスをどんなカラーにするか”ということを踏まえ、1つ1つ細かいことでもみんなで話し合ったからこそ、みんながやりたいものにまとまっていったんです」
KYOKA
「『これは違うんじゃない?』と言うときも、それを言うからにはしっかり代案がありますし、試す価値があるから試す。逆に『ここは⚫️⚫️が跳んだ方が良さそうだね』ということも話しました」
HARUNA
「各々が自分の出来ることをしっかり自覚しているんだけど、その上でミセスって“他薦”が多いんです。チームメイトのこともよく理解していて、その人の技やスタイルに合いそうなことを判断できる。
だから『自分たちがやりたいミセス』と『みんなが見たいミセス』を両立させることができたと思うんですよね。自分たちでワイワイ盛り上がっているように見えるかも知れませんが、客観視もしています。
パフォーマンスの多くは最後にスピード(駆け足飛び)やアクロバットなど、ダイナミックな大技で締めくくるケースが多いのですが、そのやり方だと他には勝てないなと思ったんです。
勝つための他にない部分、そこがいわゆる『ミセスらしさ』ということなのかなと。
ミセスならではの要素、ミセスならではのパフォーマンス構成に同意してくれることで、それが自信に繋がっていきました」
それぞれが意見を出し合い、自分の理想と他者像を重ね合わせながら進めるのが“ミセス式”のパフォーマンス作りだ。
どうしてもその手法だとなかなか意見がまとまらなかったり、メンバー同士で衝突することも考えられるが、彼女たちにそういったことはなかったようだ。
MAYU
「意見がまとまらない状態で置いておくことはほぼありません。『そこいいね』『そこ微妙だね』を繰り返します。だから喧嘩もないです。当然時間はかかってしまいますけどね。
あと良いものが出来たら自分たちでも盛り上がってしまいますし、自分やお互いをめっちゃ褒めます(笑)」
MISA
「険悪な空気になることもありません。もちろん議論が白熱したり、出来ないことによって落ち込んだりはしますが、それはどのチームにもあるレベルのことで、取り立てて激しいようなものではありません。
メンバーを見ていると、みんな作品を作ることに対する意識が高いんです」
KYOKA
「ミセスは最年長と最年少のメンバーで9つも離れていて、見てきたダブルダッチや影響を受けてきたものなども全然違います。だからこそ色々な意見が出るし、それらを互いにリスペクトできるんです」
MISA
「色々と意見が飛び交うので、“お蔵入り”になった技や音はたくさんあります。ボツのものだけでショーケースが1本できるくらいには(笑)。
当然自分たちが頭を絞って作ったものなので、それらを捨てることに未練が無いと言えば嘘になります。けれど客観視していくなかで、勇気を持ってボツにすることも必要。
『これはKYOKAっぽくないよね』とか『これはミセスらしさじゃないと思う』とか。皆さんが見たいと感じてくれたミセスになっているのだとしたら、そこが理由だと思いますね」
MAYU
「例えば手の開き方1つとっても、指の開き方の間隔から角度まで細かい一つ一つを擦り合わせていきます」
筆者がミセスのパフォーマンスに“女性らしさ”を感じるのは、まさにこうした部分が所以だろう。女性のきめ細やかな感性と丁寧さが、今回の勝利を手繰り寄せていることを感じる。
そうして迎えた、国内予選の当日。
KYOKA
「結果、パフォーマンスはミスが1つ。今回の大会は審査基準的に、ノーミスとミス1つで6点差がついてしまう仕組みなんです。この1つのミスが順位を大きく左右しかねないと思っていたので、終わった直後に『確実に世界大会へ上がれる』という自信はありませんでした。
本来だったら、ノーミスでパフォーマンスを終えて衣装で会場を練り歩いて、『ミセスすげえ』ってチヤホヤされて、これから出番の学生たちに「頑張ってね」なんて声をかけて… とかってこと細かくイメージして臨むんですが(笑)」

(写真提供:Mrs.DOUBLE DUTCH)
そうして迎えた結果発表――。5位、4位とチーム名が呼ばれていくが、ミセスの名前はまだ呼ばれていない。
HARUNA
「会場を沸かせていた他のチーム、ノーミスを出していたチームも色々と見ていて、もうダメかも…と。最初はチームメイトの手を握りながら結果を聞いていたのですが、みんなすーっとその手を離してしまって」
一瞬の静寂を経て、MCが次の結果を読み上げる。
「3位は……… Mrs.DOUBLE DUTCHーー!!」
KYOKA
「結果が出たとき、何より『ミセス』をまだ続けられることが嬉しかったんです。またミセスで練習できる。またこの人らと会える。またこの人らと一緒に帰れる。『コロラド(世界大会の開催地)に行ったらさ』ってことをたくさん話してたから、それもできるなって」
拓かれた世界への道
そうして手にした世界への切符。舞台をアメリカ・コロラド州へと移し、次なる戦いが始まる。
世界大会ではパフォーマンスに加え「フリースタイルバトル」という種目がある。DJが掛ける音楽に合わせムーブを披露し、チーム同士が1vs1で優劣を競うというものだ。
MISA
「国内予選が3月、世界大会が7月なんですが、まず国内予選のパフォーマンスをリメイクするかどうかという話になりました」
REINA
「予選と本戦ではパフォーマンスを少し作り替えるチームが多く、当然私たちもまず作り替えるかどうか、というところから話がスタートしました。ですが結果としてはそのまま持っていきました」
MAYU
「私たちは1つ1つの技や音に対してかなりの時間を費やし議論をしています。ボツになったものは私たちの中の“予選”を通過しなかったからそうなった。また同時に、あのパフォーマンスが国内予選を通過したのにも理由がある。だから変えずにいこうと」
HARUKA
「RisAに音源の編集を頼むときも、パフォーマンスの内容を変えると歌詞を途中でぶった斬ることになって、気持ちが乗っかっていかないんですよね。歌詞で振り付けを決めている部分もありましたから。
でも『こうできる?』と訊いたらすぐ対応してくれて、しかも逆に提案までしてくれて、丁寧で。こうした支えなくしてミセスは無いなと感じますね」
HARUNA
「そうなんです。本当にいろんな人に支えられているんです。世界大会の渡航にはかなりの資金が必要になるので、イベントを開いたりクラウドファンディングなどをやったんです。でもそういったツールを設けたことで、皆さんから応援の声がたくさん届くようになったんです」
SUMIRE
「練習終わりに、皆さんからクラファンに寄せていただいたメッセージを全員で読んだのですが、もうみんなボロ泣きで(笑)」
HARUNA
「ダブルダッチの仲間に限らず、それぞれ自分たちの人生で出会ってきたたくさんの人が支えてくれていることを実感して『世界大会がミセスとしての最終地点ではいけない』とも思いました。
この感謝を体現するため、大会の後まで活動し続けなければならない。だからこそ、世界大会では優勝しなければならないと」
周りの応援を力に決意を新たにしたという彼女たち。いよいよ渡米し、大会直前を迎える。
MAYU
「問題はフリースタイルバトルです。
私たちは他のチームのやり方を真似していては勝てない。決勝まで進むと5ムーブ披露することになるのですが、どのタイミングでどのムーブをぶつけるかによって勝敗が大きく左右される」
HARUKA
「実はコロラドに渡ってから、大会前日の練習で結構議論したんです。初めてくらいですかね?あれだけ熱くなったのは。
バトルムーブをどう組み替えるか、どう構成するべきかということは国内の練習で決めていたんです。でもやっぱり不安になってしまって…。
普通だと大会前日は身体を休ませたり、練習しても控えめに進めることが多いんですが、前日とは思えないくらい練習もかなりやったんです。議論もたくさんして」
応援は間違いなく彼女たちの力になっていた。しかし一方で「勝たなければならない」という思いが、じりじりと焦りを引き起こしていく。
国内予選の比にならないほどのプレッシャーだったと振り返る彼女たちだったが、議論の末になんとか方針もまとまり、練習を終えて会場に足を踏み入れたときのことだった−−。
MISA
「世界大会は何日にもわたって開催されていて、私たちの大会の前日にも競技の種目の大会があったんです。
それで、他国の選手の表彰を見ていたときです。ぼんやりと、私たちもあの表彰台の一番上で表彰されて、君が代が流れて… なんてことを考えていたら、思わず涙が溢れてしまったんです。
これまでの日々が実を結んだイメージが、勝手に湧いてくるようにして出てきて。
でも一番驚いたのは… ふと横を見たらメンバー全員が同じように泣いていたんです(笑)」
HARUNA
「私たちもMISAさんと同じように、優勝した自分たちのイメージを関係のない選手の表彰に重ねて号泣してしまっていたんです」
HARUKA
「この一件を私たちは『ブルートゥース』と呼んでいます(笑)。
でもかなりの衝撃だったと共に、大きな自信にもなりました。それぞれが目指していた先にあるものって、ここまで同じものだったんだなだと」
迎えた本番当日。メンバーのKYOKAが一時期アメリカを拠点にダブルダッチ活動を行っていたことなどもあり、ミセスに対する会場の注目度は最高潮に。
そうして彼女たちは遂に、夢にまで見た世界大会のステージに立つ。
KYOKA
「ステージに出てきただけで本当に盛り上がってくれていたんです。出てきて大盛り上がりした時『あっ、イメージ通りだ』なんて思ったりして(笑)。
でも照明が付いて音源が掛かると、余計なことは一切考えないようになって、パフォーマンスに没頭していたというか… いわゆるこれが『ゾーン』ってやつなんですかね。
疲れすらも感じなくて、結果的にノーミスで終えることができたのですが、終わってはける時までそれにすら気付かなかったんです」
MAYU
「変な例えかも知れませんが、“ショーの中に閉じ込められた”ような感じでした。終わってからしばらくして誰かが『ノーミスじゃない?』って言って初めて気付いたくらいです」

(写真提供:Mrs.DOUBLE DUTCH)
その結果、パフォーマンスでは見事1位に。
しかし彼女たちの戦いはこれで終わらない。世界一を決める最後の種目であり、“鬼門”であるフリースタイルバトルが始まる。
MISA
「どのチームと当たっても一筋縄ではいかないでしょうから、とにかくひるまないようにしようと話していました。でもいざ戦っているときは、それよりも『楽しい』という気持ちが勝っていました。
パフォーマンスで勝ち上がったとき、その結果以上に『まだミセスとしてできる!』という方が嬉しくて。
だから決勝まで進んでムーブがどんどん終わっていくと、不思議なことに寂しさも感じました。
私たちが必死になって考え続けたものが徐々に世に放たれていって、何とも言えない気持ちになって…
『この瞬間をしっかり覚えていたい』『目に焼き付けていたい』と強く感じたんです」
KYOKA
「私も勝ちたい思いは強かったのですが、それ以上に楽しくて、なんなら勝ちにいこうとし過ぎると勝てないでしょうから、楽しんで『ミセスらしく』やりたいと思っていました。
私たちが私たちらしく、ミセスがミセスらしくあることを、会場中の人たち、中継を見てくれていた人たち、そして応援してくれた全ての人たちに見ていてほしくて」

(写真提供:Mrs.DOUBLE DUTCH)
最後のムーブを終え、いよいよ結果発表。審査員が両チームの手を握り、勝利したチームの選手の腕を挙げることになっている。
カウントダウンが始まる。
一瞬の静寂。空気が張り詰める。ほどなくして、審査員が片腕を高らかに掲げる。
その腕は… MISAを掴んでいた。
女性のみのチームとして世界を征するのは、10年の歴史の中で初のことだった。

(写真提供:Mrs.DOUBLE DUTCH)
KYOKA
「もちろん嬉しかった。喜びました。ここまでの道のりで心細くなったことはあっても、前日に同じ涙を流してからは、世界一になることを信じて疑わなかった。神様がこっちを向いてくれたように感じました。
大会が終わって会場を後にしようとしたとき、虹が掛かっていたんです。『あ、天気まで私たちの味方してくれてるじゃん』なんて話しながら(笑)」
MISA
「体調を崩してしまうことも多いメンバーが、異国の地でも最終的に誰も体調を崩すことなく、万全の状態で迎えられたんです。
たくさんイメージを重ねてここまでやってきましたが、現実は“ブルートゥース”を上回る光景が待っていました」
「ここでは幸せであること」
偉業を成し遂げはや1ヶ月。最後に、世界一になった彼女たちの“これから”について訊いた。
MISA
「結成当初、8年もチームを続けていることなど想像してもいませんでしたし、こんな幸せな未来も考えられていませんでした。だから正直この先も明確な目標などがあるわけではありません。
けれど1つ、ずっと変わらないビジョンがあります。
それは『ここでは幸せであること』。
私たちはパートナーや家族、友人や職場の方々のご理解など、置かれている環境のおかげでダブルダッチに向き合うことができています。それをすっ飛ばして考えることは違うなと感じていて。
その上で続けることは難しいんです。ぼーっとただ続けることは簡単かも知れないけれど。
私はミセスのメンバーが幸せであり続けてほしい。今回大会に出ていないメンバーも、ダブルダッチから離れてしまったメンバーも。そしてそういう場である『Mrs.DOUBLE DUTCH』がこれからも続いてほしい。
そしてチーム結成当時、出たくても出られなかった子たちに道を作りたい、少しでも希望になれたらという思いがあったけど、こうした私たちの努力が、後ろに道を作れていたら嬉しいと思っています。
先のことは分からないけど、いつかまた新たなメンバーが加わったりして、私たちが『初代』なんて言われちゃったりして(笑)」
MAYU
「そうだね。いつか『もうミセス10代目? 挨拶きてないんだけど』とかって言っていたりしてね(笑)」
初のガールズチームでの世界一を成し遂げた彼女たち。
しかしそのタイトル以上に、8年という長い歳月を重ねてきた中で、彼女たちが創ってきたものの大きさは測り知れない。
そのバイタリティと原動力の源にあったのは、仲間への愛情とダブルダッチへの思い。そして、弾むような彼女たちの楽しげな会話だった。
“突飛な妄想”から夢を描き叶え続けてきたミセス。
次に何を目指し、どこへ向かっていくのだろうか。
ダブルダッチに夢を見る全ての女子たちの思いを乗せて、旅は続いていく。
SPECIAL EDITION

FINEPLAYはアクションスポーツ・ストリートカルチャーに特化した総合ニュースメディアです。2013年9月より運営を開始し、世界中のサーフィン、ダンス、ウェイクボード、スケートボード、スノーボード、クライミング、パルクール、フリースタイルなどストリート・アクションスポーツを中心としたアスリート・プロダクト・イベント・カルチャー情報を提供しています。
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●今日 ○イベント開催日
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culture横浜を拠点に国内外をアートで繋ぐ。新プロジェクト「GT Lab.」とは?ガーデングローブ合同会社 代表 佐藤航インタビュー2025.05.14近年、国内外から注目を集める日本のストリートアート。今回は、約10年に渡り裏方としてシーンを支えてきた「ガーデングローブ合同会社」代表の佐藤航氏(通称:バル)に、これまでの自身のルーツやシーンのこと、音楽からアート分野への関わり、そして今後の展望について話を訊いた。 まず最初に自己紹介をお願いします。 ガーデングローブ合同会社代表のバルです。生まれは横須賀で、年齢は今年で45歳になります。ガーデングローブという会社は、横浜に拠点を置き、壁画家を中心としたアーティストや映像作家等のクリエイターマネジメントやエージェントを国内外問わず行っています。 早速ですが昨年移転されたオフィス兼アトリエについて、教えてください。 元々ずっと、アーティストたちが自由に作業ができるスペースを作りたいと思っていて、現在のようなアトリエ兼オフィスをいつか作りたいなと思っていました。話が具体的に進んだのは、T-PLASTER代表の水口さんからの一言でした。現在のオフィスは、彼の自宅に隣接している建物をお借りしていて「アトリエにちょうど合いそうだから使ってみる?」みたいな感じでスタートして‥。ありがたや。2024年5月にオープンしました。 ミューラルアートがまずご自身の事業を体現されていますよね。コンセプトについて教えてください。 ミューラルは自社がマネジメントをしているアーティストの「Kensuke Takahashi」が描いてくれました。壁画をよく見るとGTのアルファベットが浮かび上がります。これは、T-PLASTERの水口さんと立ち上げたプロジェクト「GT Lab.」の名前にちなんでいます。GardenGroveの[G]とT-PLASTERの[T]の共同研究所(Lab.)として、新たな可能性を探りながらここから日本のアートを発信していくというような意味合いを込めています。あとは、結構周りが住宅街なので、景観に馴染むというか、悪目立ちしないというか。そう言う視点もKensukeは上手に昇華させてくれました。モノトーンにしたことでコントラストがありながら凛とした印象となり、近隣の方にも喜んでいただいてるみたいです。 1階はアトリエになっているそうですが、どのような方が使われているのでしょうか? 1階は若手アーティストが自由に使える作業場にしています。作品を作る際の塗料やイベント時の画材などの物品まわりも、ここにある物は無償で提供をしています。また、大きな作品を作りたいと思ってもその場所に困ったりもするので、そんな時にも気軽に使えるスペースを提供したいと思いこのような場を作りました。大型案件や自社プロジェクトでアーティストが複数携わる作品を制作する際にも、このスペースにみんな集まって作品作りをしたりしてますね。 1F アトリエスペースはガレージのような雰囲気 ルーツを探る ご自身は絵を描かれないと思うのですが、どういった経緯で今の事業に繋がったのでしょうか? 僕は生まれも育ちも横須賀で、地元には米軍基地があったこともあり、小さい頃から自然と海外の文化に触れる機会が多かったんですね。音楽も盛んな土地柄で、高校生の頃にはバンドのライブでモッシュしにライブハウスによく足を運んでいました。アルバイトしてたドブ板の外人バーでは爆音で音楽が鳴る中、みんながダーツやビリヤードをしたり、踊ったり、時には喧嘩が起きたりするような、熱気のある場所でした。大学時代から地元の先輩バンドのスタッフとしてツアーの同行をするようになり、その時代、僕に出会ってくれたミュージシャンや先輩たちとの経験が、僕の基礎を作ってくれたというか・・。本当に感謝しています。 作品の一つひとつに想い入れが 有名大学の経済学部に進学されたとのことですが、どのような大学時代でしたか? 運よく学習院大学の経済学部に進学したのですが、大学時代は勉強というよりは音楽に関わる時間が大半でした。メジャーと契約した先輩バンド“BADFISH”のスタッフとしてツアーやイベントに同行しまくってて、楽しいことも辛いことも、本当にたくさんの経験をさせてもらいました。当時、数バンドで一緒に全国ツアーを回ることが多かったのですが、僕が大学生で就活をしてる時期に、SNAIL RAMPのマネージャーさんから「うちにくれば?」と話をもらい、不動産会社に内定をいただいていたのですが、それはお断りさせていただき、SNAIL RAMPのマネジメント会社に新卒で入社することにしました。 内定まで決まっていたのを突然音楽業界に舵を切ることに躊躇はなかったのでしょうか? そんなに無かったですね(笑)。両親に反対されましたけど。まぁ、周りの友達もみんな金融系とか官公庁とかそれなりの会社に就職をするわけですから、その気持ちもわかります。でも、僕はそもそも良い企業に就職をしたくて大学を選んだわけではなく、単純に、池袋の方にキャンパスがあったので、遊べそうだと思って選んだんですよね(笑)。根っからそう言う思考の持ち主なので、あんまり悩んだりとかはしなかったです。それよりも僕の人生を変えてくれたバンドの先輩に恩返しをしたくて、音楽業界に就職することに決めました。その先輩たちに出会えて、自分の人生が楽しくなったんですよね。かっこいい背中を見せてくれる先輩たちに恩返しがしたい気持ちで、就職先を変更しました。そうしたなかで僕が25歳くらいの時に、まだ歌い始めて数年のRickie-Gに出会いました。お互い横須賀出身で同じ年齢だったこともあり、その数年後Rickie-Gと一緒に独立し、彼のマネジメントとしての活動がスタートしました。 Rickie-G×Dragon76 Dragon76との出会いから現在の事業に Dragon76さんとの出会いはRickie-Gさんのジャケットのアートワークがきっかけでしたよね? そうですね。2008年リリースのアルバム「am08:59」のジャケットアートワークはDragonさんで、確かその頃に出会ったかと思います。それこそ、Dragonさんがライブペイントしてたフェスにリッキーが出演してたのかな‥。その後2009年、世界一周を回る船の水先案内人という仕事で、自分はリッキーマネジメントとして乗船しDragonさんはソロで乗船されてて、一緒にキューバからパナマ・ジャマイカ・ニカラグア・グアテマラを旅しました。船の中ではリッキーがライブしたり、Dragonさんは寄港地で壁画描いたり。そして帰国後、Dragonさんのマネージャーのような形でサポートさせてもらうようになったのが、本格的にアート分野に携わるようになったきっかけです。2011年からオーストラリアなど太平洋のアーティストを集めたコンピレーションCD「PacificRoots」シリーズを5作リリースさせていただき、そのジャケットは全てドラゴンさんにお願いしました。上記のコンピCDが好評で2014年から2016年まで、横浜の仲間であるDJ HOMERUN SOUNDやDJ MEGUMUSIXたちとともに、太平洋の各国大使館や政府観光局のサポートを得て「PacificRoots FES at 横浜港 大さん橋国際客船ターミナル」を開催できたことは、自分にとってとても大きな出来事でした。 Dragon76「PacificRoots」 ここまでのお話を伺う限り、アート事業への道のりは順調に感じたのですが、実際はどうだったのでしょうか? いやぁ・・。改めて振り返ると、人には言えない危うい歴史ばかりですよ(笑)。「明日をどう生きていくか」みたいな極貧時代もありましたから。2009年に独立してからは、横浜にあったクラブというか地下の箱“JACK CAFE basement"で音楽イベント企画したり、バーテンダーしたりしながら生活をしていました。2010年代頭はミュージシャンのCDジャケットやイベント・フェスのアートワーク、そしてライブペイント等が主な活動だったと思います。2014年にDragonさんが、日本最大級のハワイアンイベントのアートワークの仕事をいただき、それが横浜ワールドポーターズ15周年アニバーサリーアートーワークに繋がり、街中に大きく作品が露出した時はとても嬉しかったですね。 新事業「GT Lab.」とは? 音楽活動を通じて、自然な流れでアートシーンにシフトをしていくわけですね。ご自身が立ち上げた「GT Lab.」についても教えていただけますか? GT Lab.は「Garden Grove」と水口さんの会社の「T-PLASTER」による共同プロジェクトとして立ち上げました。そのコンセプトは、アート×木工を中心としたモノづくりの新たな可能性を探る研究所です。特に若い世代のアーティストたちが自由に表現できる場を提供したいという想いが根底にあります。なので、現在のオフィスも一部そういったアーティストに解放をしています。また、T-PLASTERは木工にかなり強い会社なので、彼らと一緒にアート領域で様々なチャレンジをしたいと考えています。例えば、僕たちが開催するイベントや展示会の什器やパネルを木工で作り、それも展示の一部としています。廃材などをアップサイクルして作品化できるよう試行錯誤を繰り返しています。 木の廃材で作るキャプションパネル ここでは、ある程度の経験を持つアーティストたちが、若い世代にアドバイスや刺激を与えるような交流も生まれています。今後は、無垢材や木工に関する設備や知識も活用しながら、アート作品の制作や近隣のキッズを招待してワークショップなども企画していく予定です。 アトリエで作業中のJUNK-R 若手アーティストにとって非常に貴重な場ですね。このような場を作られた背景には、どのような想いがあるのでしょうか? 僕自身、若い頃から音楽を通して様々な経験をさせてもらいました。それに加えて出身の横須賀という土地柄、働いていたBarには外国人客が常連にいて、英語も日常的に飛び交っていましたし、そこでアートのイベントなども行われていて、音楽とアートは融合している場面を目の当たりにしてきました。また、当時は良くも悪くも“良い時代”だったように思います。境界が曖昧で、責任は伴いながらも自由だからこそ産まれるミックスカルチャーを体験できたことが、今の活動に繋がっています。今度は自分たちが若い世代に機会を与えていく番だと思っています。特に、ミューラルアートは、街の景観を変え、人々に刺激を与える力を持っています。若い才能がGT Lab.のような場所で制作を通して経験を積み、さらに大きな舞台へと羽ばたいていってほしいと思います。今はまだ、実績作りの段階の作家が多いですが、こういった場所での活動が、将来的に絵で飯を食えるようになるためのステップに少しでも役に立てば嬉しいですね。 オフィス内の至る所に作品が 現在のシーンについてとこれから 若手アーティストは増えているのでしょうか?何か課題を感じることはありますか? 若手アーティストは増えているのですが、海外のように大きな壁画を制作できる機会が日本ではまだまだ限られてますね。横浜や川崎を中心に少しずつ壁画を増やして行きながら認知度を上げている段階です。ただ、このようなラボを作れたことも、ひとつ前進したかなと思っています。また、アート領域全体でいうと、日本は世界中から注目されていると思いますね。タイとかアジアは凄い熱量ですよ(笑)。日本に行きたいってよく聞きますね。Kensukeの作品なんか「ジャパニーズファンタジー」の作風で、海外勢にもハマりやすい(わかりやすい)んじゃないかなって思います。そういったニーズに対して国内外問わず橋渡しができる環境づくりを僕たち裏方がサポートしていくことに課題というか使命感がありますね。 Kensuke Takahashi本人とタイのカフェに描いたミューラルアート 今後の展開や構想について教えてください。 いつか、地元の横須賀をアートや音楽で盛り上げていきたいという想いがあります。横浜で培ってきた経験を活かし、横須賀らしい魅力を引き出すようなプロジェクトを実現したいです。また、海外への展開もさらに強化していきたいと考えています。日本のアーティストの才能をどんどん世界に発信していきたいです。そのためにも、様々な国を訪れ、現地のシーンとの交流を深めていきたいと思っています。若い世代へのバトンタッチも重要なテーマなので、彼らが活躍できる場を国内外問わず積極的に作っていきたいですね。音楽、アート、そして他のカルチャーとも連携しながら、友達作りを通して世界を繋いでいくような活動を続けていきたいです。まぁ、だって友達がいる国と戦争したくないじゃないですか。僕は音楽やアートを通じて友達が沢山できました。焼酎などのメーカーさんともコラボしているのも、その想いがあります。どんどん様々な人たちとアートを通じて繋がって、友達を沢山作って、平和に暮らすことに繋がればと思いますよね。選択肢がある時代、何を使って友達を作るか。若い世代にとって、選択肢を増やす活動ができるといいなと思いますね。 約20年の仲間と共に歩み次なるステージへ向かう インタビューを通して感じたこと まず、バルさんという人間が面白い。そして、バルさんの人生は誰か先導者がいるのではないかというくらい、人に導かれる人生を生きているように感じる。まるで、世界各地の波を乗り続けるさすらいのサーファーのように。横須賀というアメリカンカルチャーが色濃い地に生まれ、学生時代から外国人と対峙し海外の音楽や言語が身近にあったことがルーツにあるが、そこから数々の現場を経験し、良い意味で先の計画をせず、良いも悪いもその時々を生きている感じがひしひしと伝わってくる。今後のアートを通じた横須賀へのチャレンジや友達作り、そして、それをどのように次の世代にバトンタッチをしていくのか。この先の動向を追い続けていきたい。 以下、プロフィール Garden Grove 横浜を拠点とし《アート/音楽を通して、街とアーティストを繋ぐ》をコンセプトとした、壁画家・音楽家・選曲家・映像作家・装飾家・デザイナー等のマネジメント/エージェント近年は壁画事業・ワークショップ事業・イベント企画制作事業を中心に、 行政や企業・まちづくり団体とともにアート/音楽による多様なコミュニケーションを推進 T-PLASTER「made with soul.」をコンセプトに、“素材へのこだわり”、“ずっと大切に使えるモノづくり”、“世代を超えて過ごせる空間づくり”を通じて、自然を守ることと、モノのあり方を追求した工務店です。リノベーション設計・施工、無垢材の家具製作・販売、レジンプロダクト製作・販売、仕上げ左官工事、建材・建具・インテリアアイテム販売、シェアスペース運営(レインボー倉庫)など、多岐にわたる事業を展開。GT Laboにおいては、アートと木工という異なる分野の融合を通じて、新しい表現や価値を生み出すことを目指す。
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surf2度の世界女王、大原沙莉がボディーボードを未来につなぐために2025.05.052度のワールドチャンピオンに輝き、ボディボード界の歴史に名を刻んだ大原沙莉。11歳で競技を始め、15歳でプロに転向。そこから世界を舞台に挑戦を続け、2019年にワールドチャンピオンを獲得、2023年には2度目の世界王者に返り咲くという偉業を成し遂げた。長年にわたり第一線でトップアスリートとして戦い続けた彼女が、2024年、現役生活にピリオドを打つという決断を下す。その裏には、「ボディボード業界の未来をつなぐ」という強い意志があった。競技者としての葛藤、引退を決めた理由、次世代へのメッセージ、そしてこれからの活動にかける想い――。次なるステージへと歩み出す彼女の今を、飾らない言葉で赤裸々に語ってくれた。 ボディボードを始めたきっかけを教えてください 父がショートボード、母がボディボードをやっていて、私が小学校1年生の時に一宮町に引っ越したタイミングで、私と弟の洋人(プロサーファー・大原洋人)にサーフィンをやって欲しいという父の想いから始めました。最初のうちは海があまり好きではなかったのですが、小学校5年生の時に御宿の海でプロボディボーダーの小池葵さんに会って、「一緒にボディボードやろうよ!」と声をかけてもらったのをきっかけに、同世代の友達も増えて楽しくなり、毎日海に入るようになりました。 試合に出るようになったきっかけは何かありましたか 私の両親は、私に楽しんでボディボードをして欲しいというよりも、競技として取り組んでほしいという想いがありました。小池葵さんに誘ってもらって訪れたボディボードのお店も、「楽しむ」というより、「試合に勝つ」ことを目指してボディボードをしている人が多かったんです。みんな試合に勝つために海に入り、練習をしているような環境が最初から整っていて、私も自然と試合に出るようになりました。小学校5年生の春にボディボードを真剣にやるようになって、6年生になる冬に、葵ちゃんが「沙莉をハワイに連れて行きたい」って言ってくれたんです。両親も競技としてボディボードをやってほしいという考えだったので、「ぜひ連れて行ってください。」と後押ししてくれて、ボディボードを始めてすぐに、海外を経験することができました。実際にハワイへ行って、間近で自分の師匠である葵ちゃんがパイプラインで試合をしている姿を見たり、自分も海外の試合に出て外国人の選手と戦ったことで、「試合に勝ちたい!」という想いが強くなっていきました。 海外を経験する中ですぐに海外を目指そうと思いましたか 正直、私がやりたくてやっているというより、ついここ数年前までは、周りの声を聞いて自分の進路を決めていました。ボディボードを始めたのも、両親の影響や、師匠の小池葵さんとの出会いがあったからです。試合に出るようになったのも、「まずは地元の試合に出てみよう」「次はNSAに出てみよう」「NSAでチャンピオンを取ったら、プロの大会に出て、世界の試合を目指そう」みたいな感じで、「自分がこの試合に出たい」「こうなりたい」と強く決めたというよりは、周りの影響がとても大きかったです。 世界チャンピオンになるためのレールが引かれていたのですね はい。でも、それが全く嫌だったわけではなくて。ボディボードは楽しかったし、私自身、すごく負けず嫌いな性格だったので、「やるからには絶対に勝ちたい」という想いがありました。もし試合に負けてしまっても、答えもちゃんと用意されていたんです。たとえば、「次勝つためには、朝練をしよう。学校に行く前に早朝、海に入って練習をすれば、もっと上手くなる」といったように、常にレールが敷かれている環境でした。 自分の意思で行動しようと切り替えた瞬間はありましたか 今までは、海外のツアーも日本人選手と一緒に回っていて、「みんなが行くから私も行く」といった感覚の部分もありました。でも、2016年に外国人選手とツアーを回るようになってからは、自分で選択し、進路を決めていかなければならないと強く思い始めました。外国人選手と過ごす機会が増え、誰も自分の代わりに決断をしてくれない。だからこそ、自分で決断していかなくてはいけないタイミングが増えていき、そこからは自分で目標を立てて、その目標に向かって少しずつですが進んで行けるようになっていきました。 自分の意思で行動するようになって、変わった部分はありましたか 外国人選手と海外のツアーを回るようになったことで、「自分で責任を負うこと」や「自分の環境を自分で作ること」を学びました。当時、一緒に試合を回っていた外国人選手たちは、そんな私の姿勢を尊重してくれていて、そのあたりから試合への向き合い方も少しづつ変わっていった気がします。そして2018年、日本人として初めてワールドチャンピオンを鈴木彩加選手が獲得した姿を見て、「自分も変わらなきゃ」という思いがより一層強くなりました。それが私にとって1番のターニングポイントになったと思います。2019年、すべてを変えて挑んだシーズンで、日本人で2人目だけれど、初めてワールドチャンピオンを獲ることができました。振り返ってみると、この3、4年はいろんなことに向き合い、自分を変えるきっかけになった時期だったと思います。 日本人が世界で戦い、活躍していくための課題はどのように感じていますか 私は、「海外に寄せつつ、日本人でいること」を大切にしています。海外で戦うためには、海外の波の経験が必ず必要で、海外トレンドを取り入れることも欠かせません。さらに、ジャッジクライテリア(評価基準)の理解を踏まえたうえで、外国人選手と戦うためのメンタルや戦術も身につけなければいけません。海外ツアーでは大きな波で試合をすることが多いため、それに対応できるスキルも必要になります。海外で戦う以上、海外のスタンダードに合わせる努力は絶対的に必要です。私自身、大きい波は得意ではありませんでしたが、少しずつ克服していきました。でも、性格やボディボードのスタイルまでを完全に外国人に合わせる必要はないと思っています。むしろ、日本人の良さを持っていたからこそ、海外で成功できる要素になったと思っています。たとえば、日本人特有の繊細さや、 ライディングのラインの丁寧さは、ボディボードにおいて大きな武器になります。外国人選手は技がダイナミックだけれど、クオリティがやや雑になってしまうこともあり、その雑さを整える作業を外国人選手たちは行っています。その中で、日本人のボディボードスタイルが海外ツアーで大きな武器になるタイミングがたくさんあると感じています。だから、それを捨てる必要はないと思っています。性格の面でも、日本人の謙虚さや感謝の気持ちといった部分は、とても大切な要素です。だからこそ、「海外に寄せつつ、日本人でいること」を大切にしてほしいと思います。 ボディボードは日本と海外で審査基準が異なると聞きましたが、実際はどうなのですか はい。実際にボディボードの試合では、日本と海外で波の大きさや質などの規模感がまったく違うので、日本の波でできることと、海外の波でできることは大きく異なります。海外のジャッジ基準に合わせたいけれど、日本ではその基準となるような波がほとんど無いため、日本独自のジャッジクライテリアが自然と生まれます。この部分が日本人選手が海外の試合に出た時に大変な点だと思います。私も、日本の評価基準に合わせて子どもの頃から練習をしていたので、自分では「決めた!」と思ったライディングでも、海外の基準ではあまり点数が伸びなかった経験をしてきました。その擦り合わせはとても大変な作業ではありましたが、適応力を養ううえではすごく良い経験になったと思っています。 引退を考え始めた時期、そしてそのきっかけを教えてください 以前から、30歳ぐらいで引退をしようと考えていたのですが、本格的に引退を考え始めたのは、2度目のワールドキャンピオンを獲った2023年の夏頃でした。「もう、来年の1年で終わりにしよう」って決めました。ワールドチャンピオンを絶対に2回獲るという目標は自分の中で決めていて、2023年のワールドツアーで1戦目、2戦目と優勝し、世界ランキングでもその時点でぶっちぎり1位になったんです。そこで、ワールドチャンピオンが取れると確信し、もう引退しようと決めました。 引退後の不安はありましたか 不安は大きかったです。11歳から選手として活動して、15 歳でプロボディボーダーになり、そこから 29 歳までプロ選手としてやってきたので、これからの生き方がガラっと変わることに対する不安が大きかったです。2023年に2度目のワールドチャンピンを取ったので、その年に引退してもよかったのですが、2024年のシーズンもツアーに出ることを決めたのは、その1年間でセカンドキャリアに繋がる活動も一緒に進めていきたいと思い、試合を回りました。その間に自分のやりたいことも増えていき、試合を回りながらいろんな人とコミニュケーションを取ることができて、とても良い1年間になりました。 選手とは違った自分で過ごすようになって、いかがですか 1番感じるのは、闘争心がなくなったことです。海に入る頻度は選手時代に比べて減りましたが、現役時代よりボディボードが好きかもしれません。初めてワールドチャンピオンを取った年から、ボードを変えたり、環境を変えたりしたことで、まだまだボディボードが上手くなれる自分の可能性を感じています。選手時代はその可能性を少しずつ現実化していき、試合に勝つことだけを考えていましたが、今は理想のボディボードを追い求めることができ、とても楽しいです。また、選手をやめる理由の1つに、業界を盛り上げたいという気持ちが強くありました。ボディボード業界が縮小してしまっている今の状況を、どうにかしなくてはという思いはずっと持っていました。選手として業界を盛り上げることも考えましたが、難しい部分もあると感じていたので、これからは業界を盛り上げられるように、与える側の人間になりたいと思っています。そのために、私は何ができるのか、何を与えられるのか、いろんな可能性を膨らませて考える時間がとても楽しいです。 ボディボード業界を盛り上げたいと思うようになったきっかけは 若い頃から、師匠の小池葵さんやその世代の先輩にお世話になってきました。先輩たちが現役だった時代はボディボードブームで、選手としても金銭的に潤っていたという話を聞いて、「どうして今は違うのだろう?」とシンプルな疑問が自分の中で湧いてきました。私は現役時代、スポンサーにも恵まれ、親のサポートもあり、不自由なく選手生活を送ることができましたが、それでも今のボディボード業界は、ブームだった時代に比べると明らかに衰退していると感じます。サーフィンはショートボードがオリンピック種目になったことで、認知度も高まり、サーフィン人口も増えてきています。でも、ボディボードは一時のブームで止まってしまい、そのまま業界全体が縮小してしまった。その理由の1つに、「誰も続けて来なかったからではないか」と思うことがあります。ブームを経験した先輩が業界から離れてしまっていて、もちろん離れる事情も理解できますが、誰かが続けていかないと、本当にこの競技がなくなってしまうのではという危機感を持つようになりました。もし、自分が最後の世代だったら絶望的でしたが、後輩たちが頑張っている姿を見て、「私が繋げなきゃ」と強い使命感を持つようになりました。だから私は、ワールドチャンピオン2回獲ったし、もうボディボード業界から離れよう。ということは出来なかったです。 業界の課題について、どのように感じていますか ボディボードの魅力を発信していくことが、とても重要だと感じています。競技そのものや選手の魅力をしっかりと発信して、価値を見出していかないと、競技を続けていくことが難しくなり、選手が離れていってしまうという悪循環が生まれてしまうと思っています。そういった発信の仕組みづくりや環境作りも私が担っていけたらいいなと感じています。また、ボディボーダーがサーフィン業界に入っていくケースは少なく、ボディボード業界の中で何かやろうと思っても、出来ることが限られてしまうのが現状です。私は、弟や多くのサーファーの友達が居るので、サーフィン業界の知識をボディボード業界に取り入れたり、他のスポーツ業界の仕組みを参考にして、ボディボード業界に新しい価値や仕組みをもたらすことができたらと考えています。今までの経験や知識を、少しずつでもボディボード業界に還元していけたらと思っています。 今後ボディボード業界や社会に貢献していきたいことはありますか 選手だった頃は、どうしても自分が1番で、自分の成功を最優先に考えていましたが、引退してからは「人に影響を与えられる存在になりたい」という気持ちが強くなりました。数年前から環境問題に触れることが増えて、サーファーである自分が、肌で感じていることを伝えていかなければ、という思いがあるのですが、環境問題は少しハードルが高く感じる場面もあって、なかなか行動に移せない分野でもありました。だからこそ、堅苦しくならずに、自分が海で感じていることや学んだことを素直に伝えて、共に学んでいける仲間を増やしていきたいと思っています。ここ数年、世界でも日本でも「いい波」が減ってきているように感じます。それによって、海の中で言い争いが起きてしまうことが、私が住んでいる千葉県一宮町の大きな問題のひとつになってしまっていると感じています。サーフィン人口が増えて、一宮町に来てくれるのはとても嬉しいことですが、良い波に乗れないと不満が溜まってしまいます。さらに、プロサーファーも多い地域なので、彼らは仕事として練習が必要です。でも、一般の人から見ると、プロサーファーばかりが良い波に乗っていると感じてしまうこともあります。けれど、プロサーファーはそれが仕事。もし、いい波が豊富にあれば、こういった不満はきっと生まれにくいのではないかと思うのです。その「いい波が減っている」根本的な原因のひとつは、環境問題ではないかと感じています。だからこそ、もっと多くの人に、わかりやすく伝えていける発信ができたらと思っています。 また、私はボディボーダーとしてのコンプレックスのようなものを長年感じてきました。ボディボーダーってマイノリティですし、海外に行けば日本人やアジア人であること自体がマイノリティになることもあります。たとえば、ハワイのパイプラインで練習していると、アジア人女性でボディボーダーだから前乗りしてもいいみたいに扱われることもありました。アジア人だから、女性だから、ボディボーダーだから、うまくいかないこともあるし、相手にされないと思ってしまう人も多いと思います。でも私は、もっと自分を誇ってほしいし、ボディボーダーとしての自分自身を、自分の活動を、胸を張って誇ってほしい。大げさに聞こえるかもしれませんが、「自分を誇れる空気」を作っていきたい、それが本音かもしれません。弟のことを見て、羨ましいと思ったことは一度もありません。でも、サーフィンをやっているからこそ注目されているな、と感じる瞬間は少なからずあります。ボディーボードの業界とは全然違うなと。誰より劣っているとか、誰より優れているとかではなく、「ボディボーダーは、ボディボーダーらしくていい」と認めてあげられる場所を作っていきたいです。そのためにも、ボディボーダーとしていろんなことに挑戦していきたいです。だからこそ、たくさんの人に声をかけてもらって、選手時代にはできなかったさまざまな経験をたくさん積んでいきたいです。 プロフィール 大原 沙莉(おおはら さり)1995年4月21日生まれ。千葉県一宮町在住。2012年、ISAワールドボディボード選手権で日本代表として出場し、日本人初となる金メダルを獲得。2019年にはAPBワールドチャンピオン、2023年にはIBC年間ランキングでグランドチャンピオンと2度世界チャンピオンに輝き、世界トップレベルの実力で長年にわたりボディボード界を牽引。JPBAでは4度の年間グランドチャンピオンに輝き、国内外で数多くの優勝実績を残す。2024年に競技生活を引退。現在は、自身の経験を生かし、ボディボード業界に恩返しするため、団体に貢献できる事を探しつつ若手育成・普及活動も始めている。また、大会で解説・ビーチMCも務め、環境問題の重要性をサーファーに伝える手段を模索中しながら、多方面で活動中。競技を離れてもなお、ボディボードの魅力と文化を次世代へつなぐ存在として、精力的に活動を続けている。
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others高輪ゲートウェイにアーバンスポーツのトッププレイヤーたちが大集結!「URBAN SPORTS & MUSIC FESTIVAL」で圧巻のパフォーマンスを体感しよう!2025.04.302025年3月にTAKANAWA GATEWAY CITYに誕生した、期間限定のナイトミュージアムバー&クラブ「ZERO-SITE Takanawa Gateway」。このたび、2025年5月3日(土・祝)に期間限定のこの会場にて「URBAN SPORTS & MUSIC FESTIVAL - USMF -」が開催される。日本の音楽シーンを牽引するDJ・アーティストと、同じく日本のアーバンスポーツシーンを牽引するトッププレイヤーたちが一堂に会するのがこのUSMF。“動き”と“音”が交差するこの特別な一日に、彼らの卓越したテクニックと情熱を間近で体感できる絶好の機会が、ここ東京の新名所となった高輪ゲートウェイで観られる! 各ジャンルの国内最高峰のパフォーマンスが目の前で一気に観られる貴重なチャンス! USMFには、多岐にわたるアーバンスポーツの国内トッププレイヤーやダンサーたちが集結。今回はショーケースやエキシビションサイファーといった形でその驚愕のパフォーマンスを披露する。普段なかなか目にすることのできない国内最高峰のテクニックを間近で体感しよう。 そしてなんと今回来場するのは各ジャンルにて世界を舞台に大活躍するトッププレイヤーの面々。おそらくどのイベントでもこのレベルのプレイヤーたちを一度に見られる機会はほとんどないと言える。SNSで見かけたことのあるあのプレイヤーから、世界大会で何度も優勝した経験を持つプレイヤーまで豪華なラインナップになっているので、アーバンスポーツ好きな方は是非足を運んで欲しい!なお下記が気になる豪華プレイヤー勢の面々だ。 出演パフォーマー一覧 BREAKIN:TSUKKI / Lón / AYANE / NANOHA / LEONA / nate / Stich / YUINA / Closeears / HARUYA / YUMETO / HINATA / Yasmin / RAM / SHOSEI / Kanamu HIPHOP:SEIYA / RINKAAA / karim /LUCCI / yuya / SAKIRA / AKIHIRO / SHUN / MIYU / hal / MAYUKA / WXX / Sakira / AKO / Nils / Mayuka / ユウタロウ / KUYA / れんた / マグナム / Hal WAACKING:Mizuki Flamingo / JUNKOO / 小幸 / CHIHIRO PARKOUR:ZEN BMX:430 (大森文隆 / 河内 銀成 / RHYME HOMMURA / CARIN HOMMURA / 山本 悠) DOUBLE DUTCH : REG☆STYLE / TATSUYA / new / IWANESS / t.taishi / daichi / KENTO / YUN FREESTYLE BASKETBALL : Zinez / Lee / KENGO / RIKU / lee / NESS FREESTYLE FOOTBALL : Yu-ri / Kazane / Ibuki / Yu-to / Shohei SHOWCASE : Valuence INFINITIES / INFINITY TWIGGZ + A.R.M.Y(FULLCAST RAISERZ) / List::X TRICKING:Tok¥o Tricking Mob(高梁 大典 / 川邊 一生 / 高梁 玲次 / 松岡 歩武) KIDS SHOWCASE : $hun,Haruto & Ryutaro / Street Drive / LIVE FOR REAL 体験型セッションではトッププレイヤーからアーバンスポーツを直接学べるチャンスも! さらに「USMF」では子どもから大人まで楽しめる体験型セッションも開催 。親子でアーバンスポーツを体験できる貴重な機会であり、もしかしたら憧れのトッププレイヤーから直接指導を受けられるかもしれない。気軽に身体を動かせるワークショップを通じて、アーバンスポーツの楽しさを肌で感じよう。 なおパルクール体験会に関しては事前予約が必要となり、今回は15:15-16:00と16:45-17:30の2枠にて開催。 定員は各12名となっているが6歳以上であれば参加可能で必要なものは動きやすい格好とタオルと室内運動靴だけ!興味がある方は是非記事最下部の予約リンクを確認して欲しい。 昼夜を通してアーバンスポーツと音楽を満喫しよう! 本イベントは昼の部と夜の部の二部構成となっており、昼の部(12:00~17:30)は入場無料。トッププレイヤーたちのパフォーマンスを気軽に観覧し、体験型セッションに参加することができる。なお会場にはSunday Food Serviceと愛子サンドウィッチのキッチンカーも設置されている。アーバンスポーツを体験した後は空かしたお腹を美味しいフードで満たそう。また夜の部(17:30~23:00)では、ドリンクを片手に豪華DJ陣による音楽とともに、アーバンスポーツとミュージックが融合したさらに熱い空間を楽しむことができ一日を通してアーバンスポーツを楽しめる空間となっている。 夜は音楽を盛り上げる豪華DJ陣とライブアクトも そして夜の部には、トッププレイヤーたちのパフォーマンスと共に日本の音楽カルチャーを代表する屈指のDJたちが集結。「音楽、ダンス、スポーツが一体化」するこの日限りの祝祭空間で楽しむ時間はひとしお! 出演アーティスト一覧 DJ:石野卓球、SHINICHI OSAWA、☆Taku Takahashi(m-flo, block.fm)、オカモトレイジ(OKAMOTO'S、DJ HOKUTO、MAR SKI(MIGHTY ZULU KINGZ)、DJ WATARAI、JOMMY、矢部ユウナ、kaikan boy、RILLライブアクト:vividboooy、UKIMPC PLAYER:KO-ney 会場をアートで彩るライブペイントとVJ演出 さらに会場では、アートパフォーマンスとしてGospelとKBによるライブペイント、そしてJACKSON kakiによるVJ演出が行われ、音楽とパフォーマンスに加えて視覚的にもイベントを盛り上げる。 最後に 今回の「USMF」では、国内外を股にかけて音楽、ダンス、スポーツ、アートといった様々な分野で大活躍する豪華な出演者たちが一堂に会し、来場者に忘れられない一日を提供!アーバンスポーツ好きな方こそ是非この貴重なチャンスを見逃さず、会場でその熱気を体感して欲しい! イベント概要 イベント名: ZERO-SITE Takanawa Gateway URBAN SPORTS & MUSIC FESTIVAL - USMF -開催日: 2025年5月3日(土・祝)時間:昼の部|12:00~17:30(入場無料)夜の部|17:30~23:00(¥2,000/2ドリンク付き)会場: ZERO-SITE Takanawa Gateway & 店舗前特設ステージ(東京都港区高輪2丁目21番2 ZERO-SITE 2F / 3F)
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culture福岡のストリートカルチャーを繋ぐ架け橋【DECADE FUKUOKA店長 和田裕司インタビュー】2025.04.28福岡のストリートカルチャーシーンにおいて、長年にわたり重要な役割を果たしてきた「DECADE FUKUOKA」。単なるストリートアパレルショップという枠を超え、ローカルコミュニティと多様なカルチャーを繋ぐ架け橋として、多くの人々にとってかけがえのない場所となっている。 今回、その舵取りを担う店長、和田裕司氏にインタビューを実施。お店の誕生から、目まぐるしく変化してきた福岡のストリートシーンの変遷、そして未来への熱い想いを語っていただいた。 立ち上げ当初からDECADE FUKUOKAを見つめ、その成長に深く関わってきた和田氏の言葉を通して、福岡のストリートカルチャーの過去・現在・未来を紐解く。 DECADE FUKUOKAのルーツと情熱 DECADE FUKUOKA DECADE FUKUOKAを立ち上げた経緯を教えてください。 今年で14年目を迎える DECADE FUKUOKAですが、実は僕は立ち上げメンバーではなかったんです。当時、近所の別の洋服店に勤務しており、そこでストリートアパレルブランド「430」を取り扱っていました。 その縁もあり、DECADE FUKUOKAがオープンした当初から近い距離で見てきました。 自分がDECADE FUKUOKAに加入したのはオープンから3年後で、6年前に現在の店舗に移転しました。立ち上げに携わったわけではないですが、この店をどう育てていくかをずっと考えてきて、移転の際には主導的な役割を担いました。単なる服屋というよりはいろんなシーンが自然に繋がれる場所になればという思いがずっとありました。 立ち上げ当初の福岡のストリートシーンはどのような雰囲気でしたか? それぞれの分野で強い個性を持つ人々がおり、先輩世代が多い時代でした。その濃い人たち同士で仲はいいんですけど、当初はがっつり手を組んでいる印象ではなかったです。 自分もシーンの中心にいるわけではないですが、近くで見させてもらう中で現在ではBMX、ダンス、スケボー、音楽をやっている若い子たちが多く出てきたりと変化を感じています。 DECADE FUKUOKAで販売している430の商品 ストリートアパレルブランド「430」に対する想いを聞かせてください。 僕は430と出会ってもう20年近くになります。単なるブランドというより、「生き様」や「姿勢」を表しているようなブランドのイメージを持っています。 僕自身はBMXライダーだったわけではないものの、ブランドに関わる先輩たちの動きに憧れてきて自分も背筋がピンとするという430はそんな存在です。 福岡としてもそのような芯のある空気感を伝えていけたらと思います。 シーンとの関わり・カルチャーへ向けて これまで10年以上、福岡のストリートシーンを見てきてどのような変化を感じていますか? DECADE FUKUOKAができて10年以上が経ち、本当に大きく変わったなと思います。以前はストリートにリアルに生きているような雰囲気が重視されていた印象があったのに対し、現在ではもっとオープンで多くの人が気軽に飛び込める環境になっていると感じています。 ライダーやダンサーなど、どのようなジャンルの人たちがDECADE FUKUOKAに集まってきますか?また彼らにとってDECADE FUKUOKAがどのような場所になっていると感じますか? DECADE FUKUOKAに来店される方は、BMXライダーやスケーター、ダンサーだけでなく、絵を描かれているアーティストの方や飲食店をされている方など本当にさまざまですね。 近年では、洋服だけでなくコーヒーやアルコールも提供しているため、服を買いに来るだけじゃなくて、ちょっと話したくて寄ってくれるとか。みんなにとっていろんなジャンルの人が気楽に入ってこれる場所になっていれば嬉しいです。 お店を通して、ストリートカルチャーと地域がどのように交差してきていると感じますか? この形を作った6年前からするとDECADE FUKUOKA自体が公民館のような一つの交差点になっていると感じるようになってきました。 特に、移転の際に併設したコーヒースタンド「ARCH」を通じて、これまで繋がりのなかった人々が服やコーヒーだけでなくそれが入り口になってつながる大切な場所になってきました。 カルチャー醸成の後押しとコミュニティ形成 DECADE FUKUOKAに併設されているARCH DECADE FUKUOKAとしてイベントやコラボなど、これまでに行ってきたカルチャー支援があれば教えてください。 ARCHというコーヒースタンドを併設していて、店の外にちょっとした休憩スペースのようなのも用意しています。そこで飲食の出店をやったり地元や県外のアーティストとのコラボアイテムの作成、展示会をさせてもらったりしています。 そういったことでつながった方から声をかけてもらって、外部のイベントに僕たちがコーヒーを入れに行ったり洋服を売りに行ったりできるようになってきました。 店舗を続ける中で生まれる「人とのつながり」で大切にしていることはありますか?またどのような「コミュニティ」づくりを目指していますか? プライドは大事なんですけど、余計なプライドは持たないようにしています。僕自身がそのBMXもスケボーも触れてはいるけど、しっかりとプレーヤーとしてやってきているわけではないので、僕自身上から目線で語れるような立場じゃないと思っています。 だからこそ、どんな人とでもどんなカルチャーやシーンに携わってきた方でも対等でいたいと思っています。親しき中にも礼儀ありじゃないですけど、礼儀礼節などをちゃんと持った関係からコミュニティは生まれていくのかなと思っているので、そこはすごく大事にしています。 お店に通われている若手世代のライダー・ダンサーたちに対して、どんな想いを持って日々接していますか? 僕自身も子供を持つ親なので子供たちがこういうカルチャーに自然と触れられるのがいい時代だなと実感しつつも、カルチャーにいた人間の価値観で、子供たちの選択肢を狭めたくはないなという思いも同時に持っています。 僕たちがかっこいいと思ってきたものや憧れてきたものをちゃんと伝えつつ、新しい世代のやり方にも耳を傾けていきたいです。 今後の展望 和田 裕司 DECADE FUKUOKAの今後の展望や挑戦したいことがあれば教えてください。 地域貢献だったりと地元にもっと根付く動きって何だろう?とすごく考えています。保育園や小学校とつながって、福岡のストリートカルチャーの若手になっていくであろう子供たちがもっと早い段階でこのシーンに触れることができる架け橋的な存在になっていきたいです。ARCHとDECADEはニコイチの店なのでもっと人が交わる空間としての幅は広げていきたいと思っています。 福岡のストリートシーンがこれからさらに盛り上がっていくためにはどのようなことが必要だと思いますか? 福岡はこだわりを持っている方が多く、ローカル同士の横のつながりが広いようで狭い街なのでプライドがぶつかることが多く、ちょっとしたピリ付き合いとかが多いんですよね。そのバランスをとりながらジャンルを飛び越えて気軽にコラボしたり面白いイベントなどを気軽にできる雰囲気は必要だと思います。 かっこつけすぎずに、それでもちゃんとこだわりがあるというのを見せられるのが福岡かな思っています。 430の商品 最後に、430やストリートカルチャーを愛する人たちへ一言お願いします! 誰かに認めてもらうとかではなくて、自分がこれかっこいいなって思えたらそれが正解かなと思っているのでそのためには続けること、ブレないことが大事だと思います。それは結構難しいことなんですけど、430はブラさずに続けてきたブランドだからこそ30年って続いてきたんだろうなと思っています。 430の福岡という大切な街のブランドを背負っているのでお店として、これからも皆さんとシーンを作っていきたいです。 インタビューを終えて インタビューを通して、和田氏のDECADE FUKUOKAと福岡のストリートカルチャーへの深い愛情と、開かれた場所であり続けたいという強い想いが伝わってきた。 多様な人々が集い、新しいカルチャーが生まれるDECADE FUKUOKAは、これからも福岡のストリートシーンにとって重要な存在であり続けるだろう。 和田裕司プロフィール 和田 裕司 和田 裕司(ワダ ユウジ) 430FLAGSHIP SHOP「DECADE FUKUOKA」店長。株式会社BEN(ベン)代表取締役。 11年前にDECADE FUKUOKAに加入。現在の福岡市の今泉の店舗には6年前に移転し、同時に「ARCH」を併設。コーヒー、アパレル、アート等、その企画・運営を通じて、ストリートカルチャーとローカルコミュニティの橋渡し役として日々奮闘中。福岡のBMXやスケート、ダンスなどのカルチャーを近くで見つめ続けながらも、自身は「好きな人たちを応援する立場」としてシーンに関わっている。 DECADE FUKUOKA〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-7-6092-716-2430
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surf満点ライドから涙の初優勝までドラマが生まれたS.LEAGUE最終戦2025.04.242025年4月16日から19日の4日間、さわかみS.LEAGUE24-25 最終戦GRAND FINALSが東京五輪の会場にもなった千葉県長生郡一宮町釣ヶ崎海岸(通称:志田下ポイント)で開催された。今大会は、ショートボード、ロングボード、マスターズに加え、ボディーボードの特別戦も実施され、多彩なカテゴリーが繰り広げられる豪華な舞台となった。 ショートボード女子は、今大会を待たずして中塩佳那が初代S.LEAGUE チャンピオンに決定。ロングボードは浜瀬海と田岡なつみがすでにS.LEAGUEチャンピオンに確定しており、GRAND FINALSではショートボード男子とマスターズクラスのS.LESGUE初代チャンピオンが確定する。さらに、来季からS.LEAGUEは、「S1(1部)」と「S2(2部)」の2部制に移行。今シーズンのランキングで翌シーズンの所属リーグを左右する重要な1戦になる。 波の方は大会初日は肩から頭サイズの波が押し寄せていたが、日が進むにつれて徐々に落ち着き、波数の少ないコンディションへ。選手たちはその変化に対応すべく、小波用のサーフボードに切り替えるなど細やかな調整を重ねながら熱戦を繰り広げた。 悲願の優勝を勝ち取った塚本勇太 塚本勇太 ©︎S.LEAGUE ショートメンズのファイナルは塚本勇太と古川海夕の対決に。塚本勇太はこれまでのヒート、点数が狙える良い波をじっくり待つスタイルで試合に挑み、残り時間がわずかという場面で見事な演技を披露し、逆転で決勝まで勝ち上がってきた。ファイナルでも、古川海夕が積極的に波に乗ってスコアを重ねるのに対し、塚本勇太は波を厳選する戦法を貫く。後半に入ったところで、塚本勇太がエクセレントスコアとなる8.00ポイントをマークし逆転。古川海夕は優勝に必要な9.00ポイントを追い求める展開に。そのまま試合は終了し、塚本勇太が悲願の初優勝。試合終了後には感極まって男泣きを見せた。 稲葉玲王と喜びを分かち合う塚本勇太 ©︎S.LEAGUE 古川海夕 ©︎S.LEAGUE 安定した試合運びで野中美波が優勝 野中美波 ©︎S.LEAGUE ショートウィメンズのファイナルは野中美波と川合美乃里の戦いに。川合美乃里は1本目に6.00ポイントをマークし、バックアップを4.60ポイントと揃える。一方の、野中美波は徐々にスコアを伸ばす試合運びで、5本目に6.75ポイントをスコア。さらに終盤には7.25ポイントを叩き出し、自らのハイスコアを塗り替え、見事優勝を飾った。 野中美波 ©︎S.LEAGUE 川合美乃里 ©︎S.LEAGUE マスターズ優勝とS.LEAGUEチャンピオンを手に入れた牛越峰統 牛越峰統 ©︎S.LEAGUE マスターズ決勝は牛越峰統、今村厚、佐藤千尋、山田桂司の4名によるヒートとなった。この決勝で2位以上に入ればS.LEAGUEチャンピオンが確定する今村厚は序盤から積極的にスコアを重ねリードを広げる。しかし、牛越峰統が8.50ポイントをスコアし一気にトップへ浮上。そのままリードを守り切り、見事GRAND FINALS優勝とS.LEAGUE初代チャンピオンの座を手に入れた。 牛越峰統 ©︎S.LEAGUE 森大騎が圧巻の“満点”パフォーマンス! 森大騎 ©︎S.LEAGUE ロングボードメンズファイナルは森大騎と初ファイナル進出を果たした西崎公彦の戦いとなった。ファイナル序盤、西崎公彦が積極的に波にアプローチをしていく。 一方の森大騎は波をじっくり見極めながらチャンスを待つ展開に。そして迎えた2本目、完璧なラインディングでパーフェクトスコアの10.00ポイントを叩き出す。勢いに乗った森大騎は、3本目に掴んだ波でも再びパーフェクト10.00ポイントをスコアし、なんと満点の20ポイントをスコアする。西崎公彦も、9.00ポイントをスコアし健闘を見せるが、試合は終了。見事、森大騎が最高の形で優勝を飾った。 西崎公彦 ©︎S.LEAGUE 森大騎 ©︎S.LEAGUE 吉川広夏が涙の優勝 吉川広夏 ©︎S.LEAGUE ロングボードウィメンズのファイナルは吉川広夏と田岡なつみのマッチアップとなった。吉川広夏が序盤にエクセレントスコアとなる8.25ポイントをマーク。一方、田岡なつみは小波ながら形の良い波をキャッチし6.75ポイントをスコア。さらに後半には9.00ポイントを叩き出し、逆転を狙う。しかし吉川広夏も終盤に8.15ポイントを出し、バックアップを塗り替え、田岡なつみが逆転するために必要なスコアが7.4ポイントに差を広げる。田岡なつみは残りわずかのところで波をキャッチしたが、6.65ポイントとわずかに届かず。吉川広夏が見事、S.LEAGUE最終戦で優勝を果たした。 田岡なつみ ©︎S.LEAGUE 吉川広夏 ©︎S.LEAGUE ボディーボード特別戦も白熱した戦いに 粂総一郎 ©︎S.LEAGUE ボディーボードの特別戦はJPBAランキング上位7名とアマチュア1名で行われた。メンズは2024年度のグランドチャンピオンに輝いた、粂総一郎が最後の1本で逆転し優勝に輝いた。一方、ウィメンズは我孫子咲良がプロ初優勝を飾った。 我孫子咲良 ©︎S.LEAGUE 粂総一郎 ©︎S.LEAGUE ショートボード男子初代S.LEAGUEチャンピオンは稲葉玲王 稲葉玲王 ©︎S.LEAGUE S.LEAGUEチャンピオン争いをしていた小林桂がR2で敗退し、残るは稲葉玲王と西優司に。稲葉玲王はR3で敗退し、西優司が優勝すればS.LEAGUEチャンピオンの可能性が残る状況。しかし、西優司はQFで塚本勇太に敗れ、稲葉玲王が見事初代S.LEAGUEチャンピオンを獲得した。 来シーズンは6月からスタート! ©︎S.LEAGUE S.LEAGUE25-26ツアーは2部リーグ制に分かれて開催。S2 TOURは6月19日から21日にS.LEAGUE 井戸野浜海岸でスタート。マスターズのトライアルも同時開催で行われる予定。S1 TOURの開幕戦は7月10日から13日に北海道勇払郡厚真町の浜厚真ポイントで開催。来シーズンのS.LEAGUEにも注目! GRAND FINALS結果 《ショートボード男子》優勝:塚本勇太2位:古川海夕3位:和氣匠太朗、大原洋人 《ショートボード女子》優勝:野中美波2位:川合美乃里3位:中塩佳那、川瀬心那《ショートボードマスターズ》優勝:牛越峰統2位:今村厚3位:山田桂司4位:佐藤千尋《ロングボード男子》優勝:森大騎2位:西崎公彦3位:堀井哲、中山祐樹 《ロングボード女子》優勝:吉川広夏2位:田岡なつみ3位:菅谷裕美、小林恵理子《ボディーボード男子》優勝:粂総一郎2位:加藤優来3位:近藤義忠4位:蛭間拓斗 《ボディーボード女子》優勝:我孫子咲良2位:山下海果3位:相田桃4位:大木咲桜