東京オリンピック競技に指定されたサーフィン。以前は、ともすると「レジャー」として扱われていたこのスポーツは、いまでは競技スポーツとして世間一般に広く認められている。若いアマチュアサーファーは、大会に勝つための努力をいとわないし、いつかプロサーファーとして生活することを当然のように夢見ている。そして、「プロで稼ぐには、大会で勝たないと」。業界では、それが常識とされているのだ。
ところが、そのような“ルール”に囚われることなく、自身のサーフィンスタイルを貫き、それを生業にしている人物がいる。プロフリーサーファー小林直海、その人だ。地元鎌倉の海でサーフィンを始めたという彼は、波の上を流れるように滑っていく「フローサーフィン」というスタイルを得意とする。競技サーフィンで結果を残していた彼が、競技性から逸脱したフリーサーフィンに転向したのは一体、何故なのか。今回のインタビューでは、彼の母であるエリコさんを迎え、生い立ちや転向の経緯、そしてこれからの活動を二人に語ってもらった。
「サーフィンでオカンに叱られたことなんてなかった」
-まずはエリコさんの話を聞かせてください。鎌倉にはいつから住んでいるんですか?
エリコ:鎌倉に家を買ったのが25年前。「海まで30メートル!」って書かれた電柱の張り紙と電話番号が、目にバンと飛び込んできたんです。他にもいろいろ見て回ってたんですけど、それ見たら「ここしかないんじゃないか」って気がして、決めちゃいました。
-運命の出会いですね。では、いつから親子でサーフィンを?
エリコ:直海がサーフィンを始めたのは3歳の頃です。私が乗っているロングボードの先端に、いつも直海がいました。たしか浮き輪をつけていたと思う。
直海:そうだったっけ。おれが覚えているのは、幼稚園の頃に、折れたシングルフィンのロングボードをリペアしてもらって乗っていたこと。オカンが初めて買ったボードだったと聞きました。

-中学生の頃はどうでしたか?
直海:中学校でサーフィンしていたのは自分一人でした。隣町の学校と、通っている学校が合併したことがあったんですけど、それでも一人。だから当時は、おれが鎌倉で一番サーフィン上手かったんです。だけど、鎌倉から鵠沼海岸まで通うようになってから、自分よりサーフィンの上手い子どもがザラにいてビックリしました。
-初めての挫折ですね。「わー、なんだこいつら!」みたいな。
直海:そうです。すごく悔しかった。今までは鎌倉で一人だったから、鵠沼で初めてライバルや、海の友達ができたんです。
-その頃のキッズ・ボーイズサーファーには、いわゆる“教育ママ”のような、スパルタの親御さんが付いていた記憶があるのですが、小林家はいかがでしたか?
エリコ:うちはぜんぜん。ライディングを後でチェックするために、ビデオカメラで子どものサーフィンを撮ってる人もいたけど、私はいつも肉眼でした。運動会とかお遊戯会でもビデオ回したことないです。ビデオに通して見たくはなかったんですよね。
直海:サーフィンでオカンに叱られたことがないです。でも、他の家は厳しい親が多かったよね。ゆるくやってたのはウチくらい。のびのびしてました。
エリコ:サーフィンの大会に出させるなんて考えたこともなかったけど、鵠沼に行くようになってからかな、急に本人が「出たい」って言うからビックリして。直海、大会で負けたら一人でわんわん泣いてたよね。
直海:NSA(アマチュア大会)の決勝常連がそろってたからね。みんなは技をバシバシ決めてました。フローサーフィンしていたおれは、正直、勝てる気がしなかったです。
エリコ:私は好きでしたけどね。直海のサーフィン。

-直海くんの独特なサーフィンスタイルのルーツは、どこから来ているのでしょうか?
エリコ:やっぱり鎌倉の波じゃないですかね。沖から岸までずーっと乗ってました。ロングボード向きのゆるい波が多いから。それもあって、直海のサーフィンスタイルはレールワーク(ボードのレールを使って方向転換する動作)中心でした。
直海:それはあるかもね。波の上で縦にアプローチするリップみたいな技よりも、フローターみたいにボードを横へ流していく技をしてました。
エリコ:それと、競らなかったよね。大会の時はみんなと同じピークで競るんじゃなくて、ちょっとずらしたところで別の波を見つけて、一人でサーフィンしてました。
直海:その方が好きだったんです。競ることは得意じゃなかった。マークも苦手でした。ガツガツと波を取りにくるサーファーも嫌だったな。でも大会に出ることは好きでしたよ。仲間と成長できたし、だからこそプロにもなったし。
-参考にしているサーファーはいましたか?
直海:海外サーファーだと、デーン・レイノルズやクレイグ・アンダーソン、あとウォーレン・スミスです。ジェレミー・フローレスやケリー・スレーターみたいなバチバチのコンペティターじゃなくて、そことは少し違うことをしてるようなサーファーが好きで見ていました。
NSAの全日本大会で優勝して、クイックシルバーがスポンサーになった時も、同じクイックのメンバーに憧れてたデーンやクレイグがいたから、「同じステッカーをボードに貼れる!」ってはしゃいでいましたね。
それから、鵠沼でよく一緒にサーフィンしている中村光貴くんや、大会の勝ち方を指導してくれた善家尚文くん。あとは萩原周くんです。自分がボーイズクラスの頃に、周くんはジュニアクラスで活躍していました。サーフィンメディアに出ていた周くんのライディング動画は、いつもチェックしていました。本人とは全然喋ったことなかったんですが。
-たしか、直海くんも出ていましたよね。
直海:ちょこちょこですね。でもその頃、自分はアマチュアだったし、かっこよくサーフィンできてはいなかったと思う。自分は動画を観てひたすら驚嘆していました。すごいサーファーがいっぱい出ていたので。

競技サーフィンからフリーサーフィンへの転向
-では、プロサーファーになった頃の話も聞かせてください。いつからプロに?
直海:JPSAのプロ公認を受けたのは、18歳の高校生の時です。公認試合に出たのは、19歳になってからかな。アマチュアの時はもちろん、プロになってからも、たくさん大会に出ました。
-経験を積んで、結果を積み重ねていったんですね。
直海:そうですね。JPSAのランキングはトップ10に入らなかったけど、3年ほど11番、12番にいました。大会単体では、2位が最高のリザルトです。
-アマ・プロと競技サーフィンを続けていて、どんなことを考えていましたか?
直海:めちゃくちゃ勝ちたくてしょうがなかったです。そう思うと、常に自分のしたいサーフィンはしてこられたかな。アマ・プロともに自分が納得のいく結果は残せたので、スポンサーの期待にも少しは応えられていたと思います。
-フリーサーフィンへの憧れはどうでしたか?
直海:競技サーフィンと同じくらいありました。例えば、自分は大会を観るよりも、フリーサーフィンの動画を観る方が好きでした。デーンのフリーサーフィンの動画なんて観まくってましたね。
-では、プロフリーサーファーになった転機はなんですか?
エリコ:わりと最近だよね。JPSAでプロになって3年目くらいで、直海のサーフィンに点数が付かなくなってから。
直海:最初は、自分のフロー(サーフィン)が注目されてるっていう自覚がありました。高い点数がもらえていましたから。きっとジャッジから見て、フレッシュに映ったんだと思います。それで結果的に準優勝できた。その年にルーキーオブザイヤーも獲得できました。
そのおかげで、つぎからトップシード(優先権)を持って大会に臨めるようになりました。トップシードがあると、本戦の4回戦目・5回戦目から優先的に出られるので良いことなんですが、正直、難しさを感じていました。そこから勝ち上がれなくなって。

-ある種の「燃え尽き症候群」だったのかもしれませんね。
直海:そうですね。トップシードは一度勝てば賞金がもらえて、ランキングも維持されやすい。一方で、1回戦目から勝ち上がってくる人は賞金への貪欲さがあるし、その日の波のコンディションに対して調整がきいてる状態なんです。海から上がって、他の選手から「直海のライディング、点数低いよ」って言われて、落ち込む反面、うれしさも感じていました。
-え、うれしかったんですか?
直海:はい。それと同じくらい、「直海のサーフィン好きだよ」って声をかけてもらえることが多かったんですよね。それ以来、大会で求められているサーフィンと、自分のスタイルにギャップを感じ始めたんです。
エリコ:直海は変わってなかったよね。勝った時も、負けた時も、ずっとフローサーフィンだった。QS湘南オープン(日本で行われた海外ツアーの大会)が鵠沼で開催された時に、コナー・オレアリーのお母さんとお会いして。お母さん、直海のサーフィンを見てビックリした顔で言ったんです。「フローして勝ってる子は初めて見た」って。私はその言葉が忘れられないです。
-才能を見てくれている人がいたんですね。
直海:はい。あと、転向のきっかけというか、サーフィンする環境が良かったのかも。サーフボードのスポンサーであるゼブラ ホンクアートには、競技用のショートボードだけじゃなくて、いろんなボードがあったんです。フィッシュテールとか、シングルフィンとか、レトロボードとか。同じボードチームに所属していた先輩の中村光貴くんたちが、それらのボードを使って波に対するアプローチの自由さや、サーフィンの楽しさを改めて教えてくれました。
あとは、先輩の大橋海人くんと、フィルマーの小川拓くんに、インドネシアのサーフィン撮影に誘われたことがあって。そのインドネシアでの撮影が、おれの中で一番良い経験になりました。そこから自分のサーフィンの映像を残していくのにハマっていったんです。2年前の撮影では、偶然いっしょにサーフィンしたクレイグが自分を絶賛してくれました。憧れのサーファーに認められて、フリーサーフィンに対するモチベーションが高まりましたね。

-アフェンズがスポンサーになった時のことも詳しく教えてください。
直海:クイックシルバーがスポンサーから外れて、しばらくアパレルはノースポンサーで大会に出ていたんです。そうしたらある日、前から一緒に撮影をしていたフィルマーの方に、「スポンサーの話が来てるんだけど、どう?」って声をかけられて。それが2017年4月9日だから、もう3年になります。
アフェンズがスポンサーになるって決まってからサーフムービーを作って、それをオーストラリアに送りました。公式のインスタグラムに『Welcome Naomi!』って載ってるのを見た時は、日本人として最高にうれしかったです。
エリコ:雰囲気もいいよね、黒髪で。「日本人!」って感じ。海外受けしたんじゃないかな。
直海:そうだね。海外のアフェンズのチームライダーはけっこう、直海のスタイルが好きだって言ってくれてます。アフェンズのライダーってエアーとかが得意だけど、レールワークが最高だって。そんな奴はあんまりいないみたいな。だから直海は最高だって。
エリコ:それもうれしいね。
直海:そうそう。でも、海外のロングボーダーまで自分のサーフィンを評価してくれたのにはビックリした。ジャレッド・メルとか、トロイ・エルモアとか。
エリコ:ロングボーダーは直海のサーフィン好きになるよね。
直海:アグレッシブなサーフィンが好きな人には、自分のサーフィンは好かれないかもしれないけど、自分にハマるものがたまたまそこだったってことだね。
-スポンサーの話がきた時、お母さんの反応はどうでしたか。
エリコ:えっ。あ、私は基本的に全然なんとも。別にいいじゃん、みたいな。
直海:そうだね。否定的なことはまず、なかった。母は、おれが決めたことに今まで一回もNOって言ってきたことはないです。波乗りに関することでは一度もないね。
エリコ:とりあえず試合は全部、絶対に見てるんですよ。勝った時はみんなが褒めてくれるから、そこは放っておいてよくて。負けた時に、良かったところを私が褒めてあげたいって思っててるんです。だから必ず見るようにしてる。負けた時に一番味方でいたい。ほんとそれだけで。他のことに口は全く出しませんでした。

-競技とは違った、フリーサーフィンならではの厳しさもあると思うのですが、どうですか?
直海:ありますね。アフェンズの社長は、ジョノ・サーフィールドって人なんですけど、もともとQSサーファーで、サーフィンがめちゃくちゃ上手いんです。チューブライディングなんかはおれより上手い。だからサーフィンに対する目が肥えてるんです。こっちから送ったライディングの映像に「これじゃダメだよ」ってバッサリ返されることもありますね。
-スタイルの多様さはあるけれど、妥協は一切なさそうですね。
直海:めちゃくちゃこだわってますよ。映像としてのクオリティーが低ければ、フッテージとして認めてくれない。すごくシビアです。もちろん、競技サーフィンも同じくらいシビアですが。
ただ、フリーサーフィンの世界は競技と違って目に見える数字や順位がないから、ノルマがないというか。自分と相手を、どう納得させるかが勝負になるんです。
-直海くん自身は、どのように映像にだわっていますか?
直海:ライディングの順番、カットのタイミング、テイクオフの使う使わない、カメラとの距離感などです。年々、自分のサーフィンに対して自分が納得したいっていうのが強くなってきてて。だから、動画編集にも細かく言うようにしてます。ガンガン言える人と、恐れ多くて言えない人がいますけど(笑)。
ありがたいことに去年から、雑誌やメディアに取り上げて貰うことが増えたので、人目に触れる前に映像を細かく確認させてもらっています。その点では、10代・20代のフィルマーさんは自分のこだわりをわかってくれる人が多いので、とても期待しています。いっしょにいい映像を作り上げていきたいです。

プロフリーサーファーとしての歩み方
-最近加入した「WHAT YOUTH」について教えてください。
直海:「WHAT YOUTH」は、フィルマーのカイ・ネビルとエディターのトラビス・フェレ達のクリエイティブチームがスタートしたユースカルチャープロジェクトです。今年に入ってからジャパンチームが発足して、創設メンバーに僕が参加することになりました。
アフェンズを日本に流通させた万歳さんという方が、このプロジェクトに誘ってくれたことがきっかけです。僕たちは「ビバさん」ってニックネームで呼んでます。
-具体的にどんな活動をしているんですか?
直海:サーファーの村田嵐、渋谷玄仁、スケーターの中田海斗、ダンサーのRinaと一緒に運営しています。コラムを書いたり、アートワークを掲載したり。もちろん、サーフィンのフィルムも載せてますよ。
-新しい試みですね。始めてみてどうですか?
直海:チャレンジしてますね。この間は、ある人にインタビューしに行きました。自分はインタビューされることが多いから、この経験を生かしてやってみようって。そうしたら、終わった後の録音の文字起こしがめちゃくちゃ大変でした(笑)。
でも、生き方だったり、サーフィンスタイルだったり、これまで写真や動画で見せてきたものを新しい形でアウトプットできて楽しいです。

-順風満帆という印象を受けますが。
直海:そんなこともないですよ。実を言うと、契約してたスポンサーが二つなくなっちゃって。プロのフリーサーファーは、常に人の目を引きつけないといけないので。その点では、競技サーフィンと同じくらいシビアです。みんな大変なので、みんなで乗り越えていきたいですね。
-サーフィンが東京オリンピック競技になったとはいえ、業界が厳しいことに変わりはないと思います。
直海:特に今年はそうです。新型コロナウィルスの影響で、知り合いのプロサーファーは減給になっちゃいました。プロ野球選手みたいに年俸で莫大なお金が入るわけではないので、スポンサーが一つなくなると、とたんに経済的に厳しくなるんです。だから、サーフィンとは別の仕事をやっている人が大勢います。可能性のあるプロサーファーが、お金を稼げずにやめていくことが多くて。そういったプロサーフィン界の現状には、すごく問題意識を感じてます。

-では今後、プロフリーサーファーとしてどう歩んでいきたいですか?
直海:自分がかっこいいと思うことで、周りと自分を納得させていきたいですね。あと、プロにお金を回す。そのためにも、いままで自分がしてこなかったことに挑戦していきます。「WHAT YOUTH」もその一つです。アウトプットの場を増やして、自分のフッテージとサーフィンの素晴らしさを世間に発信していけたらなと。もっと多くの人に見て、触れてもらえれば、結果的にプロサーファーにお金が回るようになるんじゃないかと考えています。いまは、そのための畑を作ってるような感じです。必死に耕してます。
-では、最後に一言お願いします。
直海:どのスポーツもそうかもしれませんが、人って大会結果とか、順位に注目するじゃないですか。その方がパッと見てわかりやすいし、宣伝にもなると思うので。
おれはその中で、あえて自分のサーフィンスタイルで人を魅了していきたいと思っています。そして、自分の次の世代にも、それを道として示してあげたい。あまり大きなことは言えないんですけど。それで「フリープロサーファー」っていう選択肢が、みんなの常識になったら最高です。
小林直海

1995年7月11日生まれ。鎌倉市出身・在住。レギュラーフッター。プロ初年度の2014年に準優勝を果たし、ルーキーオブザイヤーを獲得。近年、フリーサーファーとしての活動を開始した。スポンサーは「Afends」「Zburh surf boards」「Fit systems」「Captain fin」「Grass green surf garage」「Brisa marina」。
text by 佐藤稜馬
photo by Kazuki Murata
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culture横浜を拠点に国内外をアートで繋ぐ。新プロジェクト「GT Lab.」とは?ガーデングローブ合同会社 代表 佐藤航インタビュー2025.05.14近年、国内外から注目を集める日本のストリートアート。今回は、約10年に渡り裏方としてシーンを支えてきた「ガーデングローブ合同会社」代表の佐藤航氏(通称:バル)に、これまでの自身のルーツやシーンのこと、音楽からアート分野への関わり、そして今後の展望について話を訊いた。 まず最初に自己紹介をお願いします。 ガーデングローブ合同会社代表のバルです。生まれは横須賀で、年齢は今年で45歳になります。ガーデングローブという会社は、横浜に拠点を置き、壁画家を中心としたアーティストや映像作家等のクリエイターマネジメントやエージェントを国内外問わず行っています。 早速ですが昨年移転されたオフィス兼アトリエについて、教えてください。 元々ずっと、アーティストたちが自由に作業ができるスペースを作りたいと思っていて、現在のようなアトリエ兼オフィスをいつか作りたいなと思っていました。話が具体的に進んだのは、T-PLASTER代表の水口さんからの一言でした。現在のオフィスは、彼の自宅に隣接している建物をお借りしていて「アトリエにちょうど合いそうだから使ってみる?」みたいな感じでスタートして‥。ありがたや。2024年5月にオープンしました。 ミューラルアートがまずご自身の事業を体現されていますよね。コンセプトについて教えてください。 ミューラルは自社がマネジメントをしているアーティストの「Kensuke Takahashi」が描いてくれました。壁画をよく見るとGTのアルファベットが浮かび上がります。これは、T-PLASTERの水口さんと立ち上げたプロジェクト「GT Lab.」の名前にちなんでいます。GardenGroveの[G]とT-PLASTERの[T]の共同研究所(Lab.)として、新たな可能性を探りながらここから日本のアートを発信していくというような意味合いを込めています。あとは、結構周りが住宅街なので、景観に馴染むというか、悪目立ちしないというか。そう言う視点もKensukeは上手に昇華させてくれました。モノトーンにしたことでコントラストがありながら凛とした印象となり、近隣の方にも喜んでいただいてるみたいです。 1階はアトリエになっているそうですが、どのような方が使われているのでしょうか? 1階は若手アーティストが自由に使える作業場にしています。作品を作る際の塗料やイベント時の画材などの物品まわりも、ここにある物は無償で提供をしています。また、大きな作品を作りたいと思ってもその場所に困ったりもするので、そんな時にも気軽に使えるスペースを提供したいと思いこのような場を作りました。大型案件や自社プロジェクトでアーティストが複数携わる作品を制作する際にも、このスペースにみんな集まって作品作りをしたりしてますね。 1F アトリエスペースはガレージのような雰囲気 ルーツを探る ご自身は絵を描かれないと思うのですが、どういった経緯で今の事業に繋がったのでしょうか? 僕は生まれも育ちも横須賀で、地元には米軍基地があったこともあり、小さい頃から自然と海外の文化に触れる機会が多かったんですね。音楽も盛んな土地柄で、高校生の頃にはバンドのライブでモッシュしにライブハウスによく足を運んでいました。アルバイトしてたドブ板の外人バーでは爆音で音楽が鳴る中、みんながダーツやビリヤードをしたり、踊ったり、時には喧嘩が起きたりするような、熱気のある場所でした。大学時代から地元の先輩バンドのスタッフとしてツアーの同行をするようになり、その時代、僕に出会ってくれたミュージシャンや先輩たちとの経験が、僕の基礎を作ってくれたというか・・。本当に感謝しています。 作品の一つひとつに想い入れが 有名大学の経済学部に進学されたとのことですが、どのような大学時代でしたか? 運よく学習院大学の経済学部に進学したのですが、大学時代は勉強というよりは音楽に関わる時間が大半でした。メジャーと契約した先輩バンド“BADFISH”のスタッフとしてツアーやイベントに同行しまくってて、楽しいことも辛いことも、本当にたくさんの経験をさせてもらいました。当時、数バンドで一緒に全国ツアーを回ることが多かったのですが、僕が大学生で就活をしてる時期に、SNAIL RAMPのマネージャーさんから「うちにくれば?」と話をもらい、不動産会社に内定をいただいていたのですが、それはお断りさせていただき、SNAIL RAMPのマネジメント会社に新卒で入社することにしました。 内定まで決まっていたのを突然音楽業界に舵を切ることに躊躇はなかったのでしょうか? そんなに無かったですね(笑)。両親に反対されましたけど。まぁ、周りの友達もみんな金融系とか官公庁とかそれなりの会社に就職をするわけですから、その気持ちもわかります。でも、僕はそもそも良い企業に就職をしたくて大学を選んだわけではなく、単純に、池袋の方にキャンパスがあったので、遊べそうだと思って選んだんですよね(笑)。根っからそう言う思考の持ち主なので、あんまり悩んだりとかはしなかったです。それよりも僕の人生を変えてくれたバンドの先輩に恩返しをしたくて、音楽業界に就職することに決めました。その先輩たちに出会えて、自分の人生が楽しくなったんですよね。かっこいい背中を見せてくれる先輩たちに恩返しがしたい気持ちで、就職先を変更しました。そうしたなかで僕が25歳くらいの時に、まだ歌い始めて数年のRickie-Gに出会いました。お互い横須賀出身で同じ年齢だったこともあり、その数年後Rickie-Gと一緒に独立し、彼のマネジメントとしての活動がスタートしました。 Rickie-G×Dragon76 Dragon76との出会いから現在の事業に Dragon76さんとの出会いはRickie-Gさんのジャケットのアートワークがきっかけでしたよね? そうですね。2008年リリースのアルバム「am08:59」のジャケットアートワークはDragonさんで、確かその頃に出会ったかと思います。それこそ、Dragonさんがライブペイントしてたフェスにリッキーが出演してたのかな‥。その後2009年、世界一周を回る船の水先案内人という仕事で、自分はリッキーマネジメントとして乗船しDragonさんはソロで乗船されてて、一緒にキューバからパナマ・ジャマイカ・ニカラグア・グアテマラを旅しました。船の中ではリッキーがライブしたり、Dragonさんは寄港地で壁画描いたり。そして帰国後、Dragonさんのマネージャーのような形でサポートさせてもらうようになったのが、本格的にアート分野に携わるようになったきっかけです。2011年からオーストラリアなど太平洋のアーティストを集めたコンピレーションCD「PacificRoots」シリーズを5作リリースさせていただき、そのジャケットは全てドラゴンさんにお願いしました。上記のコンピCDが好評で2014年から2016年まで、横浜の仲間であるDJ HOMERUN SOUNDやDJ MEGUMUSIXたちとともに、太平洋の各国大使館や政府観光局のサポートを得て「PacificRoots FES at 横浜港 大さん橋国際客船ターミナル」を開催できたことは、自分にとってとても大きな出来事でした。 Dragon76「PacificRoots」 ここまでのお話を伺う限り、アート事業への道のりは順調に感じたのですが、実際はどうだったのでしょうか? いやぁ・・。改めて振り返ると、人には言えない危うい歴史ばかりですよ(笑)。「明日をどう生きていくか」みたいな極貧時代もありましたから。2009年に独立してからは、横浜にあったクラブというか地下の箱“JACK CAFE basement"で音楽イベント企画したり、バーテンダーしたりしながら生活をしていました。2010年代頭はミュージシャンのCDジャケットやイベント・フェスのアートワーク、そしてライブペイント等が主な活動だったと思います。2014年にDragonさんが、日本最大級のハワイアンイベントのアートワークの仕事をいただき、それが横浜ワールドポーターズ15周年アニバーサリーアートーワークに繋がり、街中に大きく作品が露出した時はとても嬉しかったですね。 新事業「GT Lab.」とは? 音楽活動を通じて、自然な流れでアートシーンにシフトをしていくわけですね。ご自身が立ち上げた「GT Lab.」についても教えていただけますか? GT Lab.は「Garden Grove」と水口さんの会社の「T-PLASTER」による共同プロジェクトとして立ち上げました。そのコンセプトは、アート×木工を中心としたモノづくりの新たな可能性を探る研究所です。特に若い世代のアーティストたちが自由に表現できる場を提供したいという想いが根底にあります。なので、現在のオフィスも一部そういったアーティストに解放をしています。また、T-PLASTERは木工にかなり強い会社なので、彼らと一緒にアート領域で様々なチャレンジをしたいと考えています。例えば、僕たちが開催するイベントや展示会の什器やパネルを木工で作り、それも展示の一部としています。廃材などをアップサイクルして作品化できるよう試行錯誤を繰り返しています。 木の廃材で作るキャプションパネル ここでは、ある程度の経験を持つアーティストたちが、若い世代にアドバイスや刺激を与えるような交流も生まれています。今後は、無垢材や木工に関する設備や知識も活用しながら、アート作品の制作や近隣のキッズを招待してワークショップなども企画していく予定です。 アトリエで作業中のJUNK-R 若手アーティストにとって非常に貴重な場ですね。このような場を作られた背景には、どのような想いがあるのでしょうか? 僕自身、若い頃から音楽を通して様々な経験をさせてもらいました。それに加えて出身の横須賀という土地柄、働いていたBarには外国人客が常連にいて、英語も日常的に飛び交っていましたし、そこでアートのイベントなども行われていて、音楽とアートは融合している場面を目の当たりにしてきました。また、当時は良くも悪くも“良い時代”だったように思います。境界が曖昧で、責任は伴いながらも自由だからこそ産まれるミックスカルチャーを体験できたことが、今の活動に繋がっています。今度は自分たちが若い世代に機会を与えていく番だと思っています。特に、ミューラルアートは、街の景観を変え、人々に刺激を与える力を持っています。若い才能がGT Lab.のような場所で制作を通して経験を積み、さらに大きな舞台へと羽ばたいていってほしいと思います。今はまだ、実績作りの段階の作家が多いですが、こういった場所での活動が、将来的に絵で飯を食えるようになるためのステップに少しでも役に立てば嬉しいですね。 オフィス内の至る所に作品が 現在のシーンについてとこれから 若手アーティストは増えているのでしょうか?何か課題を感じることはありますか? 若手アーティストは増えているのですが、海外のように大きな壁画を制作できる機会が日本ではまだまだ限られてますね。横浜や川崎を中心に少しずつ壁画を増やして行きながら認知度を上げている段階です。ただ、このようなラボを作れたことも、ひとつ前進したかなと思っています。また、アート領域全体でいうと、日本は世界中から注目されていると思いますね。タイとかアジアは凄い熱量ですよ(笑)。日本に行きたいってよく聞きますね。Kensukeの作品なんか「ジャパニーズファンタジー」の作風で、海外勢にもハマりやすい(わかりやすい)んじゃないかなって思います。そういったニーズに対して国内外問わず橋渡しができる環境づくりを僕たち裏方がサポートしていくことに課題というか使命感がありますね。 Kensuke Takahashi本人とタイのカフェに描いたミューラルアート 今後の展開や構想について教えてください。 いつか、地元の横須賀をアートや音楽で盛り上げていきたいという想いがあります。横浜で培ってきた経験を活かし、横須賀らしい魅力を引き出すようなプロジェクトを実現したいです。また、海外への展開もさらに強化していきたいと考えています。日本のアーティストの才能をどんどん世界に発信していきたいです。そのためにも、様々な国を訪れ、現地のシーンとの交流を深めていきたいと思っています。若い世代へのバトンタッチも重要なテーマなので、彼らが活躍できる場を国内外問わず積極的に作っていきたいですね。音楽、アート、そして他のカルチャーとも連携しながら、友達作りを通して世界を繋いでいくような活動を続けていきたいです。まぁ、だって友達がいる国と戦争したくないじゃないですか。僕は音楽やアートを通じて友達が沢山できました。焼酎などのメーカーさんともコラボしているのも、その想いがあります。どんどん様々な人たちとアートを通じて繋がって、友達を沢山作って、平和に暮らすことに繋がればと思いますよね。選択肢がある時代、何を使って友達を作るか。若い世代にとって、選択肢を増やす活動ができるといいなと思いますね。 約20年の仲間と共に歩み次なるステージへ向かう インタビューを通して感じたこと まず、バルさんという人間が面白い。そして、バルさんの人生は誰か先導者がいるのではないかというくらい、人に導かれる人生を生きているように感じる。まるで、世界各地の波を乗り続けるさすらいのサーファーのように。横須賀というアメリカンカルチャーが色濃い地に生まれ、学生時代から外国人と対峙し海外の音楽や言語が身近にあったことがルーツにあるが、そこから数々の現場を経験し、良い意味で先の計画をせず、良いも悪いもその時々を生きている感じがひしひしと伝わってくる。今後のアートを通じた横須賀へのチャレンジや友達作り、そして、それをどのように次の世代にバトンタッチをしていくのか。この先の動向を追い続けていきたい。 以下、プロフィール Garden Grove 横浜を拠点とし《アート/音楽を通して、街とアーティストを繋ぐ》をコンセプトとした、壁画家・音楽家・選曲家・映像作家・装飾家・デザイナー等のマネジメント/エージェント近年は壁画事業・ワークショップ事業・イベント企画制作事業を中心に、 行政や企業・まちづくり団体とともにアート/音楽による多様なコミュニケーションを推進 T-PLASTER「made with soul.」をコンセプトに、“素材へのこだわり”、“ずっと大切に使えるモノづくり”、“世代を超えて過ごせる空間づくり”を通じて、自然を守ることと、モノのあり方を追求した工務店です。リノベーション設計・施工、無垢材の家具製作・販売、レジンプロダクト製作・販売、仕上げ左官工事、建材・建具・インテリアアイテム販売、シェアスペース運営(レインボー倉庫)など、多岐にわたる事業を展開。GT Laboにおいては、アートと木工という異なる分野の融合を通じて、新しい表現や価値を生み出すことを目指す。
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surf2度の世界女王、大原沙莉がボディーボードを未来につなぐために2025.05.052度のワールドチャンピオンに輝き、ボディボード界の歴史に名を刻んだ大原沙莉。11歳で競技を始め、15歳でプロに転向。そこから世界を舞台に挑戦を続け、2019年にワールドチャンピオンを獲得、2023年には2度目の世界王者に返り咲くという偉業を成し遂げた。長年にわたり第一線でトップアスリートとして戦い続けた彼女が、2024年、現役生活にピリオドを打つという決断を下す。その裏には、「ボディボード業界の未来をつなぐ」という強い意志があった。競技者としての葛藤、引退を決めた理由、次世代へのメッセージ、そしてこれからの活動にかける想い――。次なるステージへと歩み出す彼女の今を、飾らない言葉で赤裸々に語ってくれた。 ボディボードを始めたきっかけを教えてください 父がショートボード、母がボディボードをやっていて、私が小学校1年生の時に一宮町に引っ越したタイミングで、私と弟の洋人(プロサーファー・大原洋人)にサーフィンをやって欲しいという父の想いから始めました。最初のうちは海があまり好きではなかったのですが、小学校5年生の時に御宿の海でプロボディボーダーの小池葵さんに会って、「一緒にボディボードやろうよ!」と声をかけてもらったのをきっかけに、同世代の友達も増えて楽しくなり、毎日海に入るようになりました。 試合に出るようになったきっかけは何かありましたか 私の両親は、私に楽しんでボディボードをして欲しいというよりも、競技として取り組んでほしいという想いがありました。小池葵さんに誘ってもらって訪れたボディボードのお店も、「楽しむ」というより、「試合に勝つ」ことを目指してボディボードをしている人が多かったんです。みんな試合に勝つために海に入り、練習をしているような環境が最初から整っていて、私も自然と試合に出るようになりました。小学校5年生の春にボディボードを真剣にやるようになって、6年生になる冬に、葵ちゃんが「沙莉をハワイに連れて行きたい」って言ってくれたんです。両親も競技としてボディボードをやってほしいという考えだったので、「ぜひ連れて行ってください。」と後押ししてくれて、ボディボードを始めてすぐに、海外を経験することができました。実際にハワイへ行って、間近で自分の師匠である葵ちゃんがパイプラインで試合をしている姿を見たり、自分も海外の試合に出て外国人の選手と戦ったことで、「試合に勝ちたい!」という想いが強くなっていきました。 海外を経験する中ですぐに海外を目指そうと思いましたか 正直、私がやりたくてやっているというより、ついここ数年前までは、周りの声を聞いて自分の進路を決めていました。ボディボードを始めたのも、両親の影響や、師匠の小池葵さんとの出会いがあったからです。試合に出るようになったのも、「まずは地元の試合に出てみよう」「次はNSAに出てみよう」「NSAでチャンピオンを取ったら、プロの大会に出て、世界の試合を目指そう」みたいな感じで、「自分がこの試合に出たい」「こうなりたい」と強く決めたというよりは、周りの影響がとても大きかったです。 世界チャンピオンになるためのレールが引かれていたのですね はい。でも、それが全く嫌だったわけではなくて。ボディボードは楽しかったし、私自身、すごく負けず嫌いな性格だったので、「やるからには絶対に勝ちたい」という想いがありました。もし試合に負けてしまっても、答えもちゃんと用意されていたんです。たとえば、「次勝つためには、朝練をしよう。学校に行く前に早朝、海に入って練習をすれば、もっと上手くなる」といったように、常にレールが敷かれている環境でした。 自分の意思で行動しようと切り替えた瞬間はありましたか 今までは、海外のツアーも日本人選手と一緒に回っていて、「みんなが行くから私も行く」といった感覚の部分もありました。でも、2016年に外国人選手とツアーを回るようになってからは、自分で選択し、進路を決めていかなければならないと強く思い始めました。外国人選手と過ごす機会が増え、誰も自分の代わりに決断をしてくれない。だからこそ、自分で決断していかなくてはいけないタイミングが増えていき、そこからは自分で目標を立てて、その目標に向かって少しずつですが進んで行けるようになっていきました。 自分の意思で行動するようになって、変わった部分はありましたか 外国人選手と海外のツアーを回るようになったことで、「自分で責任を負うこと」や「自分の環境を自分で作ること」を学びました。当時、一緒に試合を回っていた外国人選手たちは、そんな私の姿勢を尊重してくれていて、そのあたりから試合への向き合い方も少しづつ変わっていった気がします。そして2018年、日本人として初めてワールドチャンピオンを鈴木彩加選手が獲得した姿を見て、「自分も変わらなきゃ」という思いがより一層強くなりました。それが私にとって1番のターニングポイントになったと思います。2019年、すべてを変えて挑んだシーズンで、日本人で2人目だけれど、初めてワールドチャンピオンを獲ることができました。振り返ってみると、この3、4年はいろんなことに向き合い、自分を変えるきっかけになった時期だったと思います。 日本人が世界で戦い、活躍していくための課題はどのように感じていますか 私は、「海外に寄せつつ、日本人でいること」を大切にしています。海外で戦うためには、海外の波の経験が必ず必要で、海外トレンドを取り入れることも欠かせません。さらに、ジャッジクライテリア(評価基準)の理解を踏まえたうえで、外国人選手と戦うためのメンタルや戦術も身につけなければいけません。海外ツアーでは大きな波で試合をすることが多いため、それに対応できるスキルも必要になります。海外で戦う以上、海外のスタンダードに合わせる努力は絶対的に必要です。私自身、大きい波は得意ではありませんでしたが、少しずつ克服していきました。でも、性格やボディボードのスタイルまでを完全に外国人に合わせる必要はないと思っています。むしろ、日本人の良さを持っていたからこそ、海外で成功できる要素になったと思っています。たとえば、日本人特有の繊細さや、 ライディングのラインの丁寧さは、ボディボードにおいて大きな武器になります。外国人選手は技がダイナミックだけれど、クオリティがやや雑になってしまうこともあり、その雑さを整える作業を外国人選手たちは行っています。その中で、日本人のボディボードスタイルが海外ツアーで大きな武器になるタイミングがたくさんあると感じています。だから、それを捨てる必要はないと思っています。性格の面でも、日本人の謙虚さや感謝の気持ちといった部分は、とても大切な要素です。だからこそ、「海外に寄せつつ、日本人でいること」を大切にしてほしいと思います。 ボディボードは日本と海外で審査基準が異なると聞きましたが、実際はどうなのですか はい。実際にボディボードの試合では、日本と海外で波の大きさや質などの規模感がまったく違うので、日本の波でできることと、海外の波でできることは大きく異なります。海外のジャッジ基準に合わせたいけれど、日本ではその基準となるような波がほとんど無いため、日本独自のジャッジクライテリアが自然と生まれます。この部分が日本人選手が海外の試合に出た時に大変な点だと思います。私も、日本の評価基準に合わせて子どもの頃から練習をしていたので、自分では「決めた!」と思ったライディングでも、海外の基準ではあまり点数が伸びなかった経験をしてきました。その擦り合わせはとても大変な作業ではありましたが、適応力を養ううえではすごく良い経験になったと思っています。 引退を考え始めた時期、そしてそのきっかけを教えてください 以前から、30歳ぐらいで引退をしようと考えていたのですが、本格的に引退を考え始めたのは、2度目のワールドキャンピオンを獲った2023年の夏頃でした。「もう、来年の1年で終わりにしよう」って決めました。ワールドチャンピオンを絶対に2回獲るという目標は自分の中で決めていて、2023年のワールドツアーで1戦目、2戦目と優勝し、世界ランキングでもその時点でぶっちぎり1位になったんです。そこで、ワールドチャンピオンが取れると確信し、もう引退しようと決めました。 引退後の不安はありましたか 不安は大きかったです。11歳から選手として活動して、15 歳でプロボディボーダーになり、そこから 29 歳までプロ選手としてやってきたので、これからの生き方がガラっと変わることに対する不安が大きかったです。2023年に2度目のワールドチャンピンを取ったので、その年に引退してもよかったのですが、2024年のシーズンもツアーに出ることを決めたのは、その1年間でセカンドキャリアに繋がる活動も一緒に進めていきたいと思い、試合を回りました。その間に自分のやりたいことも増えていき、試合を回りながらいろんな人とコミニュケーションを取ることができて、とても良い1年間になりました。 選手とは違った自分で過ごすようになって、いかがですか 1番感じるのは、闘争心がなくなったことです。海に入る頻度は選手時代に比べて減りましたが、現役時代よりボディボードが好きかもしれません。初めてワールドチャンピオンを取った年から、ボードを変えたり、環境を変えたりしたことで、まだまだボディボードが上手くなれる自分の可能性を感じています。選手時代はその可能性を少しずつ現実化していき、試合に勝つことだけを考えていましたが、今は理想のボディボードを追い求めることができ、とても楽しいです。また、選手をやめる理由の1つに、業界を盛り上げたいという気持ちが強くありました。ボディボード業界が縮小してしまっている今の状況を、どうにかしなくてはという思いはずっと持っていました。選手として業界を盛り上げることも考えましたが、難しい部分もあると感じていたので、これからは業界を盛り上げられるように、与える側の人間になりたいと思っています。そのために、私は何ができるのか、何を与えられるのか、いろんな可能性を膨らませて考える時間がとても楽しいです。 ボディボード業界を盛り上げたいと思うようになったきっかけは 若い頃から、師匠の小池葵さんやその世代の先輩にお世話になってきました。先輩たちが現役だった時代はボディボードブームで、選手としても金銭的に潤っていたという話を聞いて、「どうして今は違うのだろう?」とシンプルな疑問が自分の中で湧いてきました。私は現役時代、スポンサーにも恵まれ、親のサポートもあり、不自由なく選手生活を送ることができましたが、それでも今のボディボード業界は、ブームだった時代に比べると明らかに衰退していると感じます。サーフィンはショートボードがオリンピック種目になったことで、認知度も高まり、サーフィン人口も増えてきています。でも、ボディボードは一時のブームで止まってしまい、そのまま業界全体が縮小してしまった。その理由の1つに、「誰も続けて来なかったからではないか」と思うことがあります。ブームを経験した先輩が業界から離れてしまっていて、もちろん離れる事情も理解できますが、誰かが続けていかないと、本当にこの競技がなくなってしまうのではという危機感を持つようになりました。もし、自分が最後の世代だったら絶望的でしたが、後輩たちが頑張っている姿を見て、「私が繋げなきゃ」と強い使命感を持つようになりました。だから私は、ワールドチャンピオン2回獲ったし、もうボディボード業界から離れよう。ということは出来なかったです。 業界の課題について、どのように感じていますか ボディボードの魅力を発信していくことが、とても重要だと感じています。競技そのものや選手の魅力をしっかりと発信して、価値を見出していかないと、競技を続けていくことが難しくなり、選手が離れていってしまうという悪循環が生まれてしまうと思っています。そういった発信の仕組みづくりや環境作りも私が担っていけたらいいなと感じています。また、ボディボーダーがサーフィン業界に入っていくケースは少なく、ボディボード業界の中で何かやろうと思っても、出来ることが限られてしまうのが現状です。私は、弟や多くのサーファーの友達が居るので、サーフィン業界の知識をボディボード業界に取り入れたり、他のスポーツ業界の仕組みを参考にして、ボディボード業界に新しい価値や仕組みをもたらすことができたらと考えています。今までの経験や知識を、少しずつでもボディボード業界に還元していけたらと思っています。 今後ボディボード業界や社会に貢献していきたいことはありますか 選手だった頃は、どうしても自分が1番で、自分の成功を最優先に考えていましたが、引退してからは「人に影響を与えられる存在になりたい」という気持ちが強くなりました。数年前から環境問題に触れることが増えて、サーファーである自分が、肌で感じていることを伝えていかなければ、という思いがあるのですが、環境問題は少しハードルが高く感じる場面もあって、なかなか行動に移せない分野でもありました。だからこそ、堅苦しくならずに、自分が海で感じていることや学んだことを素直に伝えて、共に学んでいける仲間を増やしていきたいと思っています。ここ数年、世界でも日本でも「いい波」が減ってきているように感じます。それによって、海の中で言い争いが起きてしまうことが、私が住んでいる千葉県一宮町の大きな問題のひとつになってしまっていると感じています。サーフィン人口が増えて、一宮町に来てくれるのはとても嬉しいことですが、良い波に乗れないと不満が溜まってしまいます。さらに、プロサーファーも多い地域なので、彼らは仕事として練習が必要です。でも、一般の人から見ると、プロサーファーばかりが良い波に乗っていると感じてしまうこともあります。けれど、プロサーファーはそれが仕事。もし、いい波が豊富にあれば、こういった不満はきっと生まれにくいのではないかと思うのです。その「いい波が減っている」根本的な原因のひとつは、環境問題ではないかと感じています。だからこそ、もっと多くの人に、わかりやすく伝えていける発信ができたらと思っています。 また、私はボディボーダーとしてのコンプレックスのようなものを長年感じてきました。ボディボーダーってマイノリティですし、海外に行けば日本人やアジア人であること自体がマイノリティになることもあります。たとえば、ハワイのパイプラインで練習していると、アジア人女性でボディボーダーだから前乗りしてもいいみたいに扱われることもありました。アジア人だから、女性だから、ボディボーダーだから、うまくいかないこともあるし、相手にされないと思ってしまう人も多いと思います。でも私は、もっと自分を誇ってほしいし、ボディボーダーとしての自分自身を、自分の活動を、胸を張って誇ってほしい。大げさに聞こえるかもしれませんが、「自分を誇れる空気」を作っていきたい、それが本音かもしれません。弟のことを見て、羨ましいと思ったことは一度もありません。でも、サーフィンをやっているからこそ注目されているな、と感じる瞬間は少なからずあります。ボディーボードの業界とは全然違うなと。誰より劣っているとか、誰より優れているとかではなく、「ボディボーダーは、ボディボーダーらしくていい」と認めてあげられる場所を作っていきたいです。そのためにも、ボディボーダーとしていろんなことに挑戦していきたいです。だからこそ、たくさんの人に声をかけてもらって、選手時代にはできなかったさまざまな経験をたくさん積んでいきたいです。 プロフィール 大原 沙莉(おおはら さり)1995年4月21日生まれ。千葉県一宮町在住。2012年、ISAワールドボディボード選手権で日本代表として出場し、日本人初となる金メダルを獲得。2019年にはAPBワールドチャンピオン、2023年にはIBC年間ランキングでグランドチャンピオンと2度世界チャンピオンに輝き、世界トップレベルの実力で長年にわたりボディボード界を牽引。JPBAでは4度の年間グランドチャンピオンに輝き、国内外で数多くの優勝実績を残す。2024年に競技生活を引退。現在は、自身の経験を生かし、ボディボード業界に恩返しするため、団体に貢献できる事を探しつつ若手育成・普及活動も始めている。また、大会で解説・ビーチMCも務め、環境問題の重要性をサーファーに伝える手段を模索中しながら、多方面で活動中。競技を離れてもなお、ボディボードの魅力と文化を次世代へつなぐ存在として、精力的に活動を続けている。
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others高輪ゲートウェイにアーバンスポーツのトッププレイヤーたちが大集結!「URBAN SPORTS & MUSIC FESTIVAL」で圧巻のパフォーマンスを体感しよう!2025.04.302025年3月にTAKANAWA GATEWAY CITYに誕生した、期間限定のナイトミュージアムバー&クラブ「ZERO-SITE Takanawa Gateway」。このたび、2025年5月3日(土・祝)に期間限定のこの会場にて「URBAN SPORTS & MUSIC FESTIVAL - USMF -」が開催される。日本の音楽シーンを牽引するDJ・アーティストと、同じく日本のアーバンスポーツシーンを牽引するトッププレイヤーたちが一堂に会するのがこのUSMF。“動き”と“音”が交差するこの特別な一日に、彼らの卓越したテクニックと情熱を間近で体感できる絶好の機会が、ここ東京の新名所となった高輪ゲートウェイで観られる! 各ジャンルの国内最高峰のパフォーマンスが目の前で一気に観られる貴重なチャンス! USMFには、多岐にわたるアーバンスポーツの国内トッププレイヤーやダンサーたちが集結。今回はショーケースやエキシビションサイファーといった形でその驚愕のパフォーマンスを披露する。普段なかなか目にすることのできない国内最高峰のテクニックを間近で体感しよう。 そしてなんと今回来場するのは各ジャンルにて世界を舞台に大活躍するトッププレイヤーの面々。おそらくどのイベントでもこのレベルのプレイヤーたちを一度に見られる機会はほとんどないと言える。SNSで見かけたことのあるあのプレイヤーから、世界大会で何度も優勝した経験を持つプレイヤーまで豪華なラインナップになっているので、アーバンスポーツ好きな方は是非足を運んで欲しい!なお下記が気になる豪華プレイヤー勢の面々だ。 出演パフォーマー一覧 BREAKIN:TSUKKI / Lón / AYANE / NANOHA / LEONA / nate / Stich / YUINA / Closeears / HARUYA / YUMETO / HINATA / Yasmin / RAM / SHOSEI / Kanamu HIPHOP:SEIYA / RINKAAA / karim /LUCCI / yuya / SAKIRA / AKIHIRO / SHUN / MIYU / hal / MAYUKA / WXX / Sakira / AKO / Nils / Mayuka / ユウタロウ / KUYA / れんた / マグナム / Hal WAACKING:Mizuki Flamingo / JUNKOO / 小幸 / CHIHIRO PARKOUR:ZEN BMX:430 (大森文隆 / 河内 銀成 / RHYME HOMMURA / CARIN HOMMURA / 山本 悠) DOUBLE DUTCH : REG☆STYLE / TATSUYA / new / IWANESS / t.taishi / daichi / KENTO / YUN FREESTYLE BASKETBALL : Zinez / Lee / KENGO / RIKU / lee / NESS FREESTYLE FOOTBALL : Yu-ri / Kazane / Ibuki / Yu-to / Shohei SHOWCASE : Valuence INFINITIES / INFINITY TWIGGZ + A.R.M.Y(FULLCAST RAISERZ) / List::X TRICKING:Tok¥o Tricking Mob(高梁 大典 / 川邊 一生 / 高梁 玲次 / 松岡 歩武) KIDS SHOWCASE : $hun,Haruto & Ryutaro / Street Drive / LIVE FOR REAL 体験型セッションではトッププレイヤーからアーバンスポーツを直接学べるチャンスも! さらに「USMF」では子どもから大人まで楽しめる体験型セッションも開催 。親子でアーバンスポーツを体験できる貴重な機会であり、もしかしたら憧れのトッププレイヤーから直接指導を受けられるかもしれない。気軽に身体を動かせるワークショップを通じて、アーバンスポーツの楽しさを肌で感じよう。 なおパルクール体験会に関しては事前予約が必要となり、今回は15:15-16:00と16:45-17:30の2枠にて開催。 定員は各12名となっているが6歳以上であれば参加可能で必要なものは動きやすい格好とタオルと室内運動靴だけ!興味がある方は是非記事最下部の予約リンクを確認して欲しい。 昼夜を通してアーバンスポーツと音楽を満喫しよう! 本イベントは昼の部と夜の部の二部構成となっており、昼の部(12:00~17:30)は入場無料。トッププレイヤーたちのパフォーマンスを気軽に観覧し、体験型セッションに参加することができる。なお会場にはSunday Food Serviceと愛子サンドウィッチのキッチンカーも設置されている。アーバンスポーツを体験した後は空かしたお腹を美味しいフードで満たそう。また夜の部(17:30~23:00)では、ドリンクを片手に豪華DJ陣による音楽とともに、アーバンスポーツとミュージックが融合したさらに熱い空間を楽しむことができ一日を通してアーバンスポーツを楽しめる空間となっている。 夜は音楽を盛り上げる豪華DJ陣とライブアクトも そして夜の部には、トッププレイヤーたちのパフォーマンスと共に日本の音楽カルチャーを代表する屈指のDJたちが集結。「音楽、ダンス、スポーツが一体化」するこの日限りの祝祭空間で楽しむ時間はひとしお! 出演アーティスト一覧 DJ:石野卓球、SHINICHI OSAWA、☆Taku Takahashi(m-flo, block.fm)、オカモトレイジ(OKAMOTO'S、DJ HOKUTO、MAR SKI(MIGHTY ZULU KINGZ)、DJ WATARAI、JOMMY、矢部ユウナ、kaikan boy、RILLライブアクト:vividboooy、UKIMPC PLAYER:KO-ney 会場をアートで彩るライブペイントとVJ演出 さらに会場では、アートパフォーマンスとしてGospelとKBによるライブペイント、そしてJACKSON kakiによるVJ演出が行われ、音楽とパフォーマンスに加えて視覚的にもイベントを盛り上げる。 最後に 今回の「USMF」では、国内外を股にかけて音楽、ダンス、スポーツ、アートといった様々な分野で大活躍する豪華な出演者たちが一堂に会し、来場者に忘れられない一日を提供!アーバンスポーツ好きな方こそ是非この貴重なチャンスを見逃さず、会場でその熱気を体感して欲しい! イベント概要 イベント名: ZERO-SITE Takanawa Gateway URBAN SPORTS & MUSIC FESTIVAL - USMF -開催日: 2025年5月3日(土・祝)時間:昼の部|12:00~17:30(入場無料)夜の部|17:30~23:00(¥2,000/2ドリンク付き)会場: ZERO-SITE Takanawa Gateway & 店舗前特設ステージ(東京都港区高輪2丁目21番2 ZERO-SITE 2F / 3F)
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culture福岡のストリートカルチャーを繋ぐ架け橋【DECADE FUKUOKA店長 和田裕司インタビュー】2025.04.28福岡のストリートカルチャーシーンにおいて、長年にわたり重要な役割を果たしてきた「DECADE FUKUOKA」。単なるストリートアパレルショップという枠を超え、ローカルコミュニティと多様なカルチャーを繋ぐ架け橋として、多くの人々にとってかけがえのない場所となっている。 今回、その舵取りを担う店長、和田裕司氏にインタビューを実施。お店の誕生から、目まぐるしく変化してきた福岡のストリートシーンの変遷、そして未来への熱い想いを語っていただいた。 立ち上げ当初からDECADE FUKUOKAを見つめ、その成長に深く関わってきた和田氏の言葉を通して、福岡のストリートカルチャーの過去・現在・未来を紐解く。 DECADE FUKUOKAのルーツと情熱 DECADE FUKUOKA DECADE FUKUOKAを立ち上げた経緯を教えてください。 今年で14年目を迎える DECADE FUKUOKAですが、実は僕は立ち上げメンバーではなかったんです。当時、近所の別の洋服店に勤務しており、そこでストリートアパレルブランド「430」を取り扱っていました。 その縁もあり、DECADE FUKUOKAがオープンした当初から近い距離で見てきました。 自分がDECADE FUKUOKAに加入したのはオープンから3年後で、6年前に現在の店舗に移転しました。立ち上げに携わったわけではないですが、この店をどう育てていくかをずっと考えてきて、移転の際には主導的な役割を担いました。単なる服屋というよりはいろんなシーンが自然に繋がれる場所になればという思いがずっとありました。 立ち上げ当初の福岡のストリートシーンはどのような雰囲気でしたか? それぞれの分野で強い個性を持つ人々がおり、先輩世代が多い時代でした。その濃い人たち同士で仲はいいんですけど、当初はがっつり手を組んでいる印象ではなかったです。 自分もシーンの中心にいるわけではないですが、近くで見させてもらう中で現在ではBMX、ダンス、スケボー、音楽をやっている若い子たちが多く出てきたりと変化を感じています。 DECADE FUKUOKAで販売している430の商品 ストリートアパレルブランド「430」に対する想いを聞かせてください。 僕は430と出会ってもう20年近くになります。単なるブランドというより、「生き様」や「姿勢」を表しているようなブランドのイメージを持っています。 僕自身はBMXライダーだったわけではないものの、ブランドに関わる先輩たちの動きに憧れてきて自分も背筋がピンとするという430はそんな存在です。 福岡としてもそのような芯のある空気感を伝えていけたらと思います。 シーンとの関わり・カルチャーへ向けて これまで10年以上、福岡のストリートシーンを見てきてどのような変化を感じていますか? DECADE FUKUOKAができて10年以上が経ち、本当に大きく変わったなと思います。以前はストリートにリアルに生きているような雰囲気が重視されていた印象があったのに対し、現在ではもっとオープンで多くの人が気軽に飛び込める環境になっていると感じています。 ライダーやダンサーなど、どのようなジャンルの人たちがDECADE FUKUOKAに集まってきますか?また彼らにとってDECADE FUKUOKAがどのような場所になっていると感じますか? DECADE FUKUOKAに来店される方は、BMXライダーやスケーター、ダンサーだけでなく、絵を描かれているアーティストの方や飲食店をされている方など本当にさまざまですね。 近年では、洋服だけでなくコーヒーやアルコールも提供しているため、服を買いに来るだけじゃなくて、ちょっと話したくて寄ってくれるとか。みんなにとっていろんなジャンルの人が気楽に入ってこれる場所になっていれば嬉しいです。 お店を通して、ストリートカルチャーと地域がどのように交差してきていると感じますか? この形を作った6年前からするとDECADE FUKUOKA自体が公民館のような一つの交差点になっていると感じるようになってきました。 特に、移転の際に併設したコーヒースタンド「ARCH」を通じて、これまで繋がりのなかった人々が服やコーヒーだけでなくそれが入り口になってつながる大切な場所になってきました。 カルチャー醸成の後押しとコミュニティ形成 DECADE FUKUOKAに併設されているARCH DECADE FUKUOKAとしてイベントやコラボなど、これまでに行ってきたカルチャー支援があれば教えてください。 ARCHというコーヒースタンドを併設していて、店の外にちょっとした休憩スペースのようなのも用意しています。そこで飲食の出店をやったり地元や県外のアーティストとのコラボアイテムの作成、展示会をさせてもらったりしています。 そういったことでつながった方から声をかけてもらって、外部のイベントに僕たちがコーヒーを入れに行ったり洋服を売りに行ったりできるようになってきました。 店舗を続ける中で生まれる「人とのつながり」で大切にしていることはありますか?またどのような「コミュニティ」づくりを目指していますか? プライドは大事なんですけど、余計なプライドは持たないようにしています。僕自身がそのBMXもスケボーも触れてはいるけど、しっかりとプレーヤーとしてやってきているわけではないので、僕自身上から目線で語れるような立場じゃないと思っています。 だからこそ、どんな人とでもどんなカルチャーやシーンに携わってきた方でも対等でいたいと思っています。親しき中にも礼儀ありじゃないですけど、礼儀礼節などをちゃんと持った関係からコミュニティは生まれていくのかなと思っているので、そこはすごく大事にしています。 お店に通われている若手世代のライダー・ダンサーたちに対して、どんな想いを持って日々接していますか? 僕自身も子供を持つ親なので子供たちがこういうカルチャーに自然と触れられるのがいい時代だなと実感しつつも、カルチャーにいた人間の価値観で、子供たちの選択肢を狭めたくはないなという思いも同時に持っています。 僕たちがかっこいいと思ってきたものや憧れてきたものをちゃんと伝えつつ、新しい世代のやり方にも耳を傾けていきたいです。 今後の展望 和田 裕司 DECADE FUKUOKAの今後の展望や挑戦したいことがあれば教えてください。 地域貢献だったりと地元にもっと根付く動きって何だろう?とすごく考えています。保育園や小学校とつながって、福岡のストリートカルチャーの若手になっていくであろう子供たちがもっと早い段階でこのシーンに触れることができる架け橋的な存在になっていきたいです。ARCHとDECADEはニコイチの店なのでもっと人が交わる空間としての幅は広げていきたいと思っています。 福岡のストリートシーンがこれからさらに盛り上がっていくためにはどのようなことが必要だと思いますか? 福岡はこだわりを持っている方が多く、ローカル同士の横のつながりが広いようで狭い街なのでプライドがぶつかることが多く、ちょっとしたピリ付き合いとかが多いんですよね。そのバランスをとりながらジャンルを飛び越えて気軽にコラボしたり面白いイベントなどを気軽にできる雰囲気は必要だと思います。 かっこつけすぎずに、それでもちゃんとこだわりがあるというのを見せられるのが福岡かな思っています。 430の商品 最後に、430やストリートカルチャーを愛する人たちへ一言お願いします! 誰かに認めてもらうとかではなくて、自分がこれかっこいいなって思えたらそれが正解かなと思っているのでそのためには続けること、ブレないことが大事だと思います。それは結構難しいことなんですけど、430はブラさずに続けてきたブランドだからこそ30年って続いてきたんだろうなと思っています。 430の福岡という大切な街のブランドを背負っているのでお店として、これからも皆さんとシーンを作っていきたいです。 インタビューを終えて インタビューを通して、和田氏のDECADE FUKUOKAと福岡のストリートカルチャーへの深い愛情と、開かれた場所であり続けたいという強い想いが伝わってきた。 多様な人々が集い、新しいカルチャーが生まれるDECADE FUKUOKAは、これからも福岡のストリートシーンにとって重要な存在であり続けるだろう。 和田裕司プロフィール 和田 裕司 和田 裕司(ワダ ユウジ) 430FLAGSHIP SHOP「DECADE FUKUOKA」店長。株式会社BEN(ベン)代表取締役。 11年前にDECADE FUKUOKAに加入。現在の福岡市の今泉の店舗には6年前に移転し、同時に「ARCH」を併設。コーヒー、アパレル、アート等、その企画・運営を通じて、ストリートカルチャーとローカルコミュニティの橋渡し役として日々奮闘中。福岡のBMXやスケート、ダンスなどのカルチャーを近くで見つめ続けながらも、自身は「好きな人たちを応援する立場」としてシーンに関わっている。 DECADE FUKUOKA〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-7-6092-716-2430
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surf満点ライドから涙の初優勝までドラマが生まれたS.LEAGUE最終戦2025.04.242025年4月16日から19日の4日間、さわかみS.LEAGUE24-25 最終戦GRAND FINALSが東京五輪の会場にもなった千葉県長生郡一宮町釣ヶ崎海岸(通称:志田下ポイント)で開催された。今大会は、ショートボード、ロングボード、マスターズに加え、ボディーボードの特別戦も実施され、多彩なカテゴリーが繰り広げられる豪華な舞台となった。 ショートボード女子は、今大会を待たずして中塩佳那が初代S.LEAGUE チャンピオンに決定。ロングボードは浜瀬海と田岡なつみがすでにS.LEAGUEチャンピオンに確定しており、GRAND FINALSではショートボード男子とマスターズクラスのS.LESGUE初代チャンピオンが確定する。さらに、来季からS.LEAGUEは、「S1(1部)」と「S2(2部)」の2部制に移行。今シーズンのランキングで翌シーズンの所属リーグを左右する重要な1戦になる。 波の方は大会初日は肩から頭サイズの波が押し寄せていたが、日が進むにつれて徐々に落ち着き、波数の少ないコンディションへ。選手たちはその変化に対応すべく、小波用のサーフボードに切り替えるなど細やかな調整を重ねながら熱戦を繰り広げた。 悲願の優勝を勝ち取った塚本勇太 塚本勇太 ©︎S.LEAGUE ショートメンズのファイナルは塚本勇太と古川海夕の対決に。塚本勇太はこれまでのヒート、点数が狙える良い波をじっくり待つスタイルで試合に挑み、残り時間がわずかという場面で見事な演技を披露し、逆転で決勝まで勝ち上がってきた。ファイナルでも、古川海夕が積極的に波に乗ってスコアを重ねるのに対し、塚本勇太は波を厳選する戦法を貫く。後半に入ったところで、塚本勇太がエクセレントスコアとなる8.00ポイントをマークし逆転。古川海夕は優勝に必要な9.00ポイントを追い求める展開に。そのまま試合は終了し、塚本勇太が悲願の初優勝。試合終了後には感極まって男泣きを見せた。 稲葉玲王と喜びを分かち合う塚本勇太 ©︎S.LEAGUE 古川海夕 ©︎S.LEAGUE 安定した試合運びで野中美波が優勝 野中美波 ©︎S.LEAGUE ショートウィメンズのファイナルは野中美波と川合美乃里の戦いに。川合美乃里は1本目に6.00ポイントをマークし、バックアップを4.60ポイントと揃える。一方の、野中美波は徐々にスコアを伸ばす試合運びで、5本目に6.75ポイントをスコア。さらに終盤には7.25ポイントを叩き出し、自らのハイスコアを塗り替え、見事優勝を飾った。 野中美波 ©︎S.LEAGUE 川合美乃里 ©︎S.LEAGUE マスターズ優勝とS.LEAGUEチャンピオンを手に入れた牛越峰統 牛越峰統 ©︎S.LEAGUE マスターズ決勝は牛越峰統、今村厚、佐藤千尋、山田桂司の4名によるヒートとなった。この決勝で2位以上に入ればS.LEAGUEチャンピオンが確定する今村厚は序盤から積極的にスコアを重ねリードを広げる。しかし、牛越峰統が8.50ポイントをスコアし一気にトップへ浮上。そのままリードを守り切り、見事GRAND FINALS優勝とS.LEAGUE初代チャンピオンの座を手に入れた。 牛越峰統 ©︎S.LEAGUE 森大騎が圧巻の“満点”パフォーマンス! 森大騎 ©︎S.LEAGUE ロングボードメンズファイナルは森大騎と初ファイナル進出を果たした西崎公彦の戦いとなった。ファイナル序盤、西崎公彦が積極的に波にアプローチをしていく。 一方の森大騎は波をじっくり見極めながらチャンスを待つ展開に。そして迎えた2本目、完璧なラインディングでパーフェクトスコアの10.00ポイントを叩き出す。勢いに乗った森大騎は、3本目に掴んだ波でも再びパーフェクト10.00ポイントをスコアし、なんと満点の20ポイントをスコアする。西崎公彦も、9.00ポイントをスコアし健闘を見せるが、試合は終了。見事、森大騎が最高の形で優勝を飾った。 西崎公彦 ©︎S.LEAGUE 森大騎 ©︎S.LEAGUE 吉川広夏が涙の優勝 吉川広夏 ©︎S.LEAGUE ロングボードウィメンズのファイナルは吉川広夏と田岡なつみのマッチアップとなった。吉川広夏が序盤にエクセレントスコアとなる8.25ポイントをマーク。一方、田岡なつみは小波ながら形の良い波をキャッチし6.75ポイントをスコア。さらに後半には9.00ポイントを叩き出し、逆転を狙う。しかし吉川広夏も終盤に8.15ポイントを出し、バックアップを塗り替え、田岡なつみが逆転するために必要なスコアが7.4ポイントに差を広げる。田岡なつみは残りわずかのところで波をキャッチしたが、6.65ポイントとわずかに届かず。吉川広夏が見事、S.LEAGUE最終戦で優勝を果たした。 田岡なつみ ©︎S.LEAGUE 吉川広夏 ©︎S.LEAGUE ボディーボード特別戦も白熱した戦いに 粂総一郎 ©︎S.LEAGUE ボディーボードの特別戦はJPBAランキング上位7名とアマチュア1名で行われた。メンズは2024年度のグランドチャンピオンに輝いた、粂総一郎が最後の1本で逆転し優勝に輝いた。一方、ウィメンズは我孫子咲良がプロ初優勝を飾った。 我孫子咲良 ©︎S.LEAGUE 粂総一郎 ©︎S.LEAGUE ショートボード男子初代S.LEAGUEチャンピオンは稲葉玲王 稲葉玲王 ©︎S.LEAGUE S.LEAGUEチャンピオン争いをしていた小林桂がR2で敗退し、残るは稲葉玲王と西優司に。稲葉玲王はR3で敗退し、西優司が優勝すればS.LEAGUEチャンピオンの可能性が残る状況。しかし、西優司はQFで塚本勇太に敗れ、稲葉玲王が見事初代S.LEAGUEチャンピオンを獲得した。 来シーズンは6月からスタート! ©︎S.LEAGUE S.LEAGUE25-26ツアーは2部リーグ制に分かれて開催。S2 TOURは6月19日から21日にS.LEAGUE 井戸野浜海岸でスタート。マスターズのトライアルも同時開催で行われる予定。S1 TOURの開幕戦は7月10日から13日に北海道勇払郡厚真町の浜厚真ポイントで開催。来シーズンのS.LEAGUEにも注目! GRAND FINALS結果 《ショートボード男子》優勝:塚本勇太2位:古川海夕3位:和氣匠太朗、大原洋人 《ショートボード女子》優勝:野中美波2位:川合美乃里3位:中塩佳那、川瀬心那《ショートボードマスターズ》優勝:牛越峰統2位:今村厚3位:山田桂司4位:佐藤千尋《ロングボード男子》優勝:森大騎2位:西崎公彦3位:堀井哲、中山祐樹 《ロングボード女子》優勝:吉川広夏2位:田岡なつみ3位:菅谷裕美、小林恵理子《ボディーボード男子》優勝:粂総一郎2位:加藤優来3位:近藤義忠4位:蛭間拓斗 《ボディーボード女子》優勝:我孫子咲良2位:山下海果3位:相田桃4位:大木咲桜