2019年10月27日にジャカルタで開催された自転車競技BMXフリースタイル・フラットランドのアジア選手権で、初代日本代表選手として出場した池田貴広(29歳/CYCLENT)が準優勝を果たした。
今大会『2019 Asian Urban Cycling Championships』はアジア各国の競技連盟からの代表選手のみが出場権を得ることができ、日本自転車競技連盟でのBMXフリースタイル・フラットランドの日本代表選手の選考が初めて行われ、全日本選手権などで好成績を収めた池田が日本代表に選出された。3分間の競技時間の中、 ギネス世界記録にも認定されている世界最速の回転技や、 自身のオリジナル技『IKE SPIN』などを成功させ、 銀メダルを獲得。
11月1日~3日には中国・成都で開催のワールドカップ、6日~8日に開催の世界選手権への出場も決定し、 世界チャンピオン獲得にも期待が掛かっている。

上記大会はいずれも国際自転車競技連合(UCI)が主催する公式戦で、アジア選手権・世界選手権については2019年が初開催となり、2020年の東京オリンピックの種目にも採用されているBMXフリースタイル・パークとも同時開催されている。
池田が専門とするBMXフリースタイル・フラットランドも2024年のパリオリンピックの種目に採用される可能性が高く、 アーバンスポーツ全体に注目が集まっている。
池田貴広コメント
皆さん応援ありがとうございました!
初の日本代表選手になることができ、「JAPAN」や「日の丸」の書かれたウェアを着用して、国を代表してBMXに乗ることのできる貴重な機会をいただき、心より光栄に思います。
改めて日本のBMX界やスポーツ界に貢献していけるよう、気を引き締めてライディングして参ります。
今回のアジア選手権での準優勝に満足することなく、次のワールドカップや世界選手権に向けて、精一杯に頑張りたいと思います。

BMXとは
Bicycle Moto X(cross)の略で、 競技に使用される小径自転車。 BMXを使った競技にはいくつかの部門があり、 その中でもBMXレースとBMXフリースタイル・パークはオリンピック種目に採用されている。
池田貴広のプレーする“BMXフリースタイル・フラットランド”は平地で様々な体勢で走行しながら、 技を連続して織り交ぜていくエクストリームスポーツ。
BMXライダー池田貴広

1990年5月17日生まれ。 千葉県千葉市出身。
自転車を華麗に操るエクストリームスポーツ『BMXフリースタイル・フラットランド』のプロライダー。
回転技を極め、 『高速スピン』において4種目のギネス世界記録を保持。
2016年には世界選手権で準優勝、 2017年からはシルクドゥソレイユ世界ツアー公演への出演を果たし、 その名を世界に轟かせた。
現在は東京を拠点に世界大会に出場しながら、 イベントでのパフォーマンス、 メディア出演など、 多岐に渡って活動中。
世界へ挑戦し続けるアーティスト・アスリート。
株式会社サイクレント 代表取締役。
・2010年 国際大会 Red Bull Flamenco Flatland 優勝
・2014年 BFWC世界ランキング 年間3位
・2015年 BMXのスピン技で4種のギネス世界記録に認定
・2016年 iBMXff World Championships 準優勝
・2017年 シルクドゥソレイユ VOLTA 出演
株式会社サイクレント
BMXチームCYCLENTの運営、 BMXライダーのマネージメント、 エクストリームスポーツを中心としたキャスティングやイベント制作、 映像制作などを行っている。
SPECIAL EDITION
FINEPLAYはアクションスポーツ・ストリートカルチャーに特化した総合ニュースメディアです。2013年9月より運営を開始し、世界中のサーフィン、ダンス、ウェイクボード、スケートボード、スノーボード、クライミング、パルクール、フリースタイルなどストリート・アクションスポーツを中心としたアスリート・プロダクト・イベント・カルチャー情報を提供しています。
アクションスポーツ・ストリートカルチャーの映像コンテンツやニュースを通して、ストリート・アクションスポーツの魅力を沢山の人へ伝えていきます。
●今日 ○イベント開催日
-
danceSHIROFES.が弘前で紡ぐダンスコミュニティの存在意義|KYOKA×NOBUOスペシャルインタビュー2026.08.26キッズ時代から頭角を表し、世界を舞台に活躍をし続けるトップダンサーKYOKA。そして、青森県弘前市から世界へとストリートダンスの魅力を発信する複合型ダンスフェス「SHIROFES.」のオーガナイザー、NOBUO。 今回は、今年SHIROFES.に3年ぶりの出演となったKYOKAと、彼女を熱望し続けてきたNOBUOによるスペシャルインタビューを敢行。開催直前に迫るSHIROFES.の魅力や新たな挑戦、そして現在のダンスシーンについて話を訊いた。 唯一無二のダンサー|KYOKAとの出会い ― まず最初に、おふたりが出会ったきっかけについて教えていただけますか? KYOKA:私の認識ではSHIROFES.が最初やと思ってます。それより前にももしかしたらどこかのイベントで一緒になってたかもしれないんですけど、NOBUOさんっていう存在をちゃんと認識したのはSHIROFES.ですね。そこでちゃんとお話させていただいたかなと思います。 NOBUO:そうですね、僕もはっきり覚えているのは2018年のSHIROFES.です。KYOKAは当時、TAISUKEと一緒に2on2バトルに出てくれたんですよ。当日のノリみたいな感じで2人でバトルに出て、そのまま優勝しちゃったんです(笑)。それを見て「唯一無二の存在感がすごいダンサーだな」と衝撃を受けました。おそらく、2人が組んだバトルはこれが最初で最後では・・というくらい貴重な組み合わせでしたね。そういうのが生まれるのがSHIROFES.の醍醐味です。 KYOKAに関しては、この2年間はダメ元でオファーをかけ続けていたんですけど、どうしても他の海外イベントと被ってしまって。でも、今年こそは絶対に呼びたいと思って、懲りずにオファーをしたら3年ぶりに出演してもらうことが叶いました。 ⒸSHIROFES. 2018 ― KYOKAさんはそれ程SHIROFES.にとって欠かせない存在なんですね! NOBUO:KYOKAはダンスに対する考え方や、実際の現場での姿勢が本当に真摯なんですよね 。シーンのことまで深く考えてくれている。だから、僕も含めてSHIROFES.のスタッフはみんな「KYOKAファン」なんです。彼女の実力や人間力を見れば、世界レベルで戦っている姿も、納得です。SHIROFES.にとって絶対に欠かせないダンサーのうちの一人だと思っています。 KYOKA:嬉しいです!ありがとうございます(照)。でも、私からしてもNOBUOさんって本当に特別な存在で、ダンサーとしてはもちろんオーガナイザーとしてめちゃくちゃリスペクトしているんです。いつ会っても、何が起きても、本当に冷静なんですよ。 SHIROFES.だけじゃなく、Red Bull主催のイベントなどでもご一緒する機会が多いんですけど、普通なら頭がパンパンになってパニックになるような状況でも、NOBUOさんはいつもニコニコ笑顔なんですよね 。その笑顔のまま冷静にスタッフに指示を出して、現場を綺麗に回しちゃう。 日本人だけじゃなくて海外からも多様なダンサーが来ますし、お祭りだからみんなお酒も入っていろいろな問題が起きたりする。それでも常に笑顔で冷静に判断できるのは、NOBUOさんの積み上げてきた経験と準備、そしてあのメンタルがあってこそやなって。ひとりのオーガナイザーとしていつも本当にすごいなと尊敬しています。 ⒸSHIROFES.2025 / Hama Show 弘前の街をダンサーがジャックする|SHIROFES.の魅力 ― 国内外の数あるダンスイベントの中でも、特に「唯一無二の空気感がある」と評判のSHIROFES.ですが、KYOKAさんから見て、どんなところに魅力があると思いますか? KYOKA:一番の魅力は、やっぱり「真面目すぎないところ」やと思います。規模的には日本でもトップに入るくらいめちゃくちゃ大きくて、ダンサーも毎回超豪華。SHIROFES.のタイトルを狙って海外からわざわざ来る人もたくさんいるくらいプロフェッショナルなイベントなのに、どこか肩の力が抜けていて「負けてもいいや、楽しもう!」くらいのテンションで参加できるんです。 東京や大阪で同じ規模のフェスをやっても、絶対にこの空気感は作れないと思うんですよね。 弘前というロケーションもそうですし、NOBUOさんというオーガナイザーがいて、それを支える温かいスタッフや地元の方々がいて自然にできあがっている。カチカチのコンペティションにする必要がないから、その場のノリで「一緒に組んであのバトル出ようや!」ってパートナーを見つけて出ちゃうこともよくあるし、そういうお祭り気分をみんなで共有できるのが本当に楽しいんです。 あと、SHIROFES.期間中は、弘前の街中のどこを歩いてもダンサーに会うんです(笑)。ご飯屋さんに行っても、バーに行っても、みんないて「お疲れ様!」ってハングアウトが始まる。街全体がダンサーにジャックされているみたいで、バトルが終わった後のコミュニケーションこそがメインやと思って楽しみに来ている人も多いと思います。 ― こうした「街全体で温かく迎える空気」というのは、どのように作られてきたのでしょうか? NOBUO:最初こそ、規模も小さいし関わる人たちも少ないので、全然そんなことなかったのですが、弘前で10年続けてきたからこそ、そのような“地域”を意識したイベントに成長したなと感じています。今では、ダンサーが市民や地元の警察の方などに「SHIROFES.の関係者の方ですか? お疲れ様です、ありがとうございます!」って声をかけてくださるほどに。そんな街、あまり聞いたことがないですよね。 地元のテレビ局やCMでも告知を流していただいていて、僕自身、普段の買い物中に市民の方から「今年のSHIROFES.も楽しみにしてます!」って声をかけていただくことも増えて驚いています。 ― ダンスコミュニティだけでなく、市民の皆さんにもSHIROFES.が浸透しているのですね 。 NOBUO:昨年なんて「うちのおばあちゃんが楽しみにしていて、初めてSHIROFES.に行って初めてRed Bullを飲んだ」って言う方もいて。お孫さんがバトルに出るから、あるいは見に行きたいからと付き添いでおじいちゃん、おばあちゃんが会場の弘前公園に来て、そのまま特定のダンサーのファンになって帰っていく、みたいなことも起きています。ダンスを全然やったことがない一般の方々が、普通にお気に入りのダンサーをチェックするような、すごく開かれた街になっているのを感じます。 KYOKA:普通のダンスイベントだと観客席に座っているのはダンサーやその関係者ばっかり、ということも多いと思うんですけど、SHIROFES.は公園の敷地内で開催されているから、無料で観れるエリアもある。だから、友達同士や、お祭り目当てでたまたま通りがかったファミリー層が「あ、かっこいいな」って足を止めてそのまま見入ってくれる機会が自然とあるんですよね。このオープンでファミリーライクな雰囲気が、参加者のハードルを下げて、誰もが楽しめる空間を作っているんやと思います。 ⒸSHIROFES.2025 / FEworks ダンサーファーストの軸はぶらさず|2026年の挑戦 ― SHIROFES.の魅力がさらに深まる2026年、「新たな挑戦」は何かありますか? NOBUO:そうですね、今年はダンスバトルの大きな挑戦として、オールスタイルバトルの予選から決勝にいたるすべての行程を「生バンドの演奏(生音)」で行いたいと思っています。 KYOKA:これは本当に贅沢ですよね。ダンサーからしたら、やっぱり「生音が一番」なんですよ! カテゴリーに関係なく、生バンドの音でバトルができるって聞いたら、どんなジャンルのダンサーでも絶対に出たがると思います。 私たちは音楽があってこその存在。普段、スピーカーから聴いている音楽で踊るのとは全然違って、生音を自分のすぐ近くで、身体の奥深くで直接感じられるのは、見ている人が想像している以上にめちゃくちゃ気持ち良いんです。 その場で初めて流れる生の演奏に、自分の身体がどれだけ一体になれるか、どこまで気持ち良くなれるか。これはダンサーにとってもめちゃくちゃ刺激的なチャレンジだし、贅沢な体験です。今年は絶対にヤバいメンツが集まるし、すごいバトルが生まれると思います。 NOBUO:あとは、今年のゲストショーケースも約30チームと、過去最大の規模になっています。東北にいたら普段は生で見られないような、大阪をはじめとする全国トップクラスの著名なダンサーたちが弘前に集結します。 今年は、開催がこれまでの真夏から9月に変更になったことで、日暮れが早くなるので、夕暮れから夜にかけてのすごく良い雰囲気の中で、ハイクオリティなゲストショーケースを野外でじっくり堪能してもらえると思います。 ⒸSHIROFES.2025 / Hama Show ― その超豪華なステージにも、KYOKAさんは出演されるのでしょうか? NOBUO:KYOKAには本当にたくさんのことをお願いしていて(笑)。ステージでのショーケースをはじめ、ヒップホップの1on1バトルのジャッジ、それからキッズバトルのジャッジも務めてもらいます。さらにワークショップまでやってもらいます・・! KYOKA:盛り沢山すぎてバタバタです(笑)。でも、SHIROFES.ってただ大人しく座って見ているよりも、こうやってバタバタと忙しく動き回って参加している方が絶対に楽しいんですよ。合間を縫ってバトルにも出たいなと思っています。忙しい方がありがたいですし、お祭りなのでとにかく目いっぱい楽しみたいと思います! SHIROFES.の存在意義|繋ぎたいモノ ― SHIROFES.はコミュニティとしての質も高いイベントと感じますが、NOBUOさんはSHIROFES.をどのような場にしていきたいとお考えですか? NOBUO:ありがたいことに、今年は告知開始当初からワークショップなども含めるとすでに1,000人を超えるエントリーが集まっています。その中で僕が嬉しいと感じるのが、弘前のキッズたちが、東京や大阪の同世代のダンサーたちとチームを組んで出場している姿を見かけるようになったことです。昔の地方のシーンでは、こんなこと絶対に考えられませんでした。 お祭りという開かれた場所だからこそ、地域やジャンルを超えた若い世代の「繋がり」が自然と生まれている。バトルで「負けたからすぐ帰る」とか「自分の出るイベントしか行かない」というのも現代のスタイルではあるし、それ自体を否定するわけではないのですが、せっかくダンスや音楽という素晴らしい共通言語を持っているのだから、イベントをきっかけに「今度一緒にチーム組んでみよう」「別のイベントにも一緒に出よう」って、フィジカルに繋がっていく関係がもっと増えてほしいなと。その場を提供し続けることが、今後のSHIROFES.の大きな展望であり、一番大切にしたい役割だと思っています。 ⒸSHIROFES.2025 / MARCOMONK ― 「リアルな現場で繋がる価値」について、KYOKAさんも現場で感じることはありますか? KYOKA:はい、とても感じます。今の若い世代、特にキッズたちを取り巻く環境は、私たちが子どもの頃と比べて物凄く便利になっています。YouTubeやInstagramを見れば、自分から必死に調べなくても最先端のダンスや情報が勝手に流れてくる。わざわざ習いたい先生に会うために、高い交通費を払って大阪や九州、海外まで行かなくても、スマホひとつで映像が見られてしまう。 それはもちろん良いことでもあるんですけど、一方で「自分から能動的に求めて行動する好奇心」や、「現場にわざわざ足を運んで、リアルな空間で直接学ぶ熱量」がすごく薄れてしまっている気がするんです。 私たちは、日本のストリートダンスシーンを創り上げてこられたレジェンドの先輩方から、直接ダンスを教わり、その背中を見て歴史を直に学べたギリギリ最後の世代やと思っています。私たちの下の世代になると、その素晴らしいレジェンドの方々に会ったこともないし、生で踊る姿を見たこともないというキッズが本当にたくさんいる。 これってめちゃくちゃもったいないし、個人的には寂しく思います。その歴史があって、今の日本の素晴らしいシーンがあるのに。 だからこそ、私たちの世代がその架け橋となって「先輩方から受け継いだカルチャーや歴史をしっかりと下の世代に伝えていくキーパーソンにならなあかん」という強い使命感を持っています。 ⒸSHIROFES. ― KYOKAさんが世界を舞台に走り続ける姿そのものが、次世代への強いメッセージになっているとも感じますが、ご自身ではどのように感じていますか? KYOKA:ありがとうございます。そうなると良いなと思いつつ活動をしています。SHIROFES.は、そのレジェンドの方々や海外のトップダンサーたちが、日本の地方である「青森県弘前市」に集結する、本当に特別な場所です。 日本のキッズは実力も高くて本当に素晴らしい。でも、だからこそ「憧れ」だけで終わってほしくないんです。「KYOKAさんかっこいい、憧れです」と言ってくれるのは嬉しいけれど、そこで終わるんじゃなくて、憧れを超えて、今度は自分が世界へ飛び出して戦う存在になってほしい。 NOBUOさんがこの弘前という場所に、世界最先端のリアルな「現場」を創ってくれているのだから、そこから「世界ってこんなに広いんや、もっと外を見てみたい!」と、視野を広げるきっかけを掴んでほしいと願っています。 NOBUO:KYOKAのその言葉、本当に胸に刺さりますし、僕自身の原体験とも深く重なります。 僕がダンスに出会った大学生の頃は、コミュニティも情報も何もなくて、とにかく大阪の先輩たちの家にお世話になりながら、リアルな現場でがむしゃらに学ぶしかありませんでした。今の時代から見たら不便極まりない環境でしたけど、そこで直接レジェンドの先輩方に優しく教えてもらい、シーンの温かさを繋いでもらった。 だから、僕がRUSHBALLのイベントに行った時、かつてお世話になったWILD CHERRYさんたちの姿や歴史が、今世界で戦うRUSHBALLの2人とフラッシュバックして重なり合う瞬間があるんです。脈々と受け継がれてきた「歴史」があるから、今の僕たちのダンスがある。 ⒸSHIROFES.2025 / MARCOMONK レジェンドから次世代へ|自分たちにできること ― そうした世代を超えたバトンが、リアルを通じて今も受け継がれているのですね。 NOBUO:そうですね。日本のダンスシーンが積み上げてきた不変の歴史を、今の子たちや、これからダンスを知る方々に伝えていきたい。 目の前のバトルの勝ち負けという結果だけに一喜一憂するのではなく、もっと広く、それぞれのジャンルが持つ歴史や背景を学び、知ることの本当の面白さを伝えていきたい。その価値観は、SHIROFES.に参加してくれているすべてのダンサーと共有できているはずだと信じています。 KYOKA:日本のキッズのみんなが海外で活躍できるような世の中に、もっとなってほしいなっていうのは、すごい前からいつも相方のMAiKAと話してて。小さい頃からダンスをやってきてるけど「今、日本を代表するキッズダンサーって誰?」って聞かれた時に、何人名前が上がるかなと。純粋にダンスを習っている人が増えるのも良いことだし、ダンサーが増えるのも大歓迎やけど、その一方で突き抜ける個性あふれる“強いダンサー”が育たない土壌になっちゃっているのかもしれないと思ったりします。 ⒸSHIROFES.2025 / MARCOMONK NOBUO:KYOKAがいうことは世の中が便利になって簡単に手に入るモノが増えたことによる弊害かもしれないと、現場にいると感じます。それ自体を否定したいわけではなく、それを認識した上で、自ら働きかけないとダンサーとしての成長は難しいかなと思うんですよね。だからこそ、ダンサーにとってSHIROFES.はそういうホンモノに触れたり、気付けたりする「場」であって欲しい。現状維持ということではないですが、変に規模を拡大していくとかそういうことではなく「このまま」を提供し続けられることが存在意義ですし、今後も続けていきたい理由です。 一方で、「楽しめるフェス感」も大切にしていて全く堅苦しくないイベントなので、これまでダンスイベントに行ったことが無い人にも気軽に遊びにきていただきたいと思っています! KYOKA:私も今からとっても楽しみにしています!会場で、少なくとも1,000人のダンサーがうろうろしているので、気軽に声をかけてもらえたらと思います。というか冷静に考えると、そんな機会はあんまりないと思うので物凄いことですよね(笑)。ダンサーの皆さんも、そうではない方もSHIROFES.で一緒に楽しみましょ〜!! プロフィール KYOKA 大阪出身のHIPHOPダンサー。MAIKAとのダンスチーム「RUSHBALL」として幼少期から活躍し、2012年に世界最高峰のストリートダンスバトル「JUSTE DEBOUT」HIPHOP部門で準優勝。2016年には同大会で優勝し、世界一のタイトルを獲得した。圧倒的な音楽性と独自のグルーヴを武器に、現在はRUSHBALL、Red Bull All Starsとして世界各地のバトル、ショー、ワークショップ、ジャッジで活動している。 NOBUO(岩渕 伸雄) 岩手県出身。弘前大学ストリートダンスサークルA.C.T.に所属し、ダンスを始める。大学院修了後、2008年にダンススタジオ「FUNKY STADIUM」をオープン。2012年、弘前市で芸術舞踊に関する活動を発展させるため、「ひろさき芸術舞踊実行委員会」を設立。 2016年、弘前城本丸にて大規模野外フェスティバルSHIROFES.を開催。2021年、国が主催する「スポーツ文化ツーリズムアワード2021」で SHIROFES.が国内最高賞「スポーツ文化ツーリズム賞」を受賞。自身もダンサーとして活動し続け、更には育成などにも力を注いでいる。 ダンススタジオ事業・イベント事業、レッドブルジャパン(株)のダンスコンテンツプロジェクトディレクターも務める。2023年10月より弘前大学大学院博士課程に進学。「カルチャーに対する熱量が及ぼす影響について」をテーマに研究も行っている。 SHIROFES. 2026 開催概要 イベント名:SHIROFES. 2026開催地:青森県弘前市|弘前公園 市民広場・市民会館開催日時:2026年9月4日(金)17:00-20:302026年9月5日(土) 9:00-20:302026年9月6日(日)9:00-20:30主なコンテンツ:ダンスバトル、ダンスショーケース、ダンスワークショップキッズプレイエリア、物販ブース、飲食ブースなど
-
others「トリッキングで食べていく」独学から世界制覇、そして『極限武術』へ。トリッキングパフォーマー・Daisuke Takahashiインタビュー2026.08.13バイオハザードの主人公に憧れ、バク転を真似たのがすべての始まりだった。教えてくれる人はおらず、動画を見て覚える完全な独学。土手の砂場を練習場所に、弟のReijiと切磋琢磨してきた彼は、高校卒業と同時に「トリッキングで食べていく」と決め、2016年には世界大会で優勝を果たした。 現在はスタジオ3店舗を運営しながら、パフォーマンスチーム「TOK¥O TRICKING MOB」を主宰。レッドブルクリエイターとしての活動や、Dリーグ選手への指導も手がける一方で、自ら5年前に立ち上げた大会「極限武術」を主催し、8月22日・23日には有明アリーナで開催を控えている。オリンピック競技化を見据えたスコア制度の導入など、競技としての新しい試みにも積極的だ。 武術とストリート、その狭間で独自のスタイルを築き上げてきた彼に、トリッキングとの出会いから今後の展望まで、じっくりと語ってもらった。 Daisuke Takahashi(以下:D) 「この主人公になりたい」——バイオハザードから始まったトリッキング人生 ―まずは直近の活動についてお伺いします。第一線でのパフォーマンスや大会に加え、メディア出演など幅広く活動されていますが、手応えを感じている部分はありますか? D:最近はレッドブルクリエイターとして色々な企画に参加していて、トリッキングだけにとどまらない方面に露出できているかなという感覚があります。ランニングやフィットネスといった領域にも参加させてもらいながら、トリッキングの選手としてのキャリアや経歴を残し、「こういう人がいるんだ」というのを見せられていると感じますね。 ―トリッキングが浸透してきている、という実感が湧く瞬間はありますか? D:結構ありますね。スタジオを3店舗運営しているのですが、プライベートレッスンの依頼が増えていたり、アーティストの方やDリーグの選手たちから「トリッキングを習いたい」という声がすごく多くなっています。エンターテインメントとしてアクロバットをやるならトリッキングが強い、という認識が本当に広がっていると感じます。 ―トリッキングを始めたきっかけを教えてください。 D:始めたきっかけは10歳の頃、「バイオハザード」というゲームが大好きで。主人公がゾンビの攻撃をバク転で避けたり、隙があれば回転蹴りで応戦したりする姿を見て、「この主人公になりたい」と思ったのがすべての始まりです。真似をしたのがスタートでしたね。 ―最初からトリッキングという競技だという認識はあったんですか? D:最初はパルクールやアクロバットというイメージでした。その後YouTubeで「乱舞」という動画を見つけて、その内容がトリッキングだったんです。「これだ」と思ってやり始めました。 当時はパルクールの方がずっと有名でしたし、自分でもパルクールだと思っていたのですが、パルクールは障害物を登ったりする要素が必須で、「そこはちょっと違うな、蹴りとかやりたいんだよな」という気持ちがありました。 ―蹴り技にもトリッキングのルーツがありますよね。 D:そうですね。トリッキングはもともと武術なので、蹴りや武術がベースになっているんです。パルクールは軍のトレーニングにルーツがあるという話もあるので、そのあたりでも二つの競技の違いが生まれているのだと思います。 独学で掴んだ世界の頂点。弟・Reijiと築いた唯一無二のスタイル ―そこからどのように競技にのめり込んでいったのでしょうか? D:10歳、小学5年生の頃からですね。今で言うと始めるのが遅い方かもしれません。小学校の頃から中学に上がっても、5、6人の仲間とずっと一緒に練習していました。 練習環境と呼べるようなものはなくて、陸上トラックのそばにある土手の砂場や、五反田にあった児童館のマットを使って練習していました。教えてくれる人はいなかったので、動画を見て覚える完全な独学でした。当時のチーム名は「我流」といって、Tシャツを作って土手を自転車で走り回ったりしていていました(笑)。 ―高校卒業後は、大学ではなくすぐにトリッキングの道に進まれたんですね。 D:高校を卒業する時点で「トリッキングで食べていく」と決めていたので、大学には行かず、すぐにバク転教室で働き始めました。当時はトリッキング教室というもの自体がそもそも存在しなかったんです。当時は大阪で大会が開催されるだけで、大阪と関東にそれぞれ同年代のトップ選手が1人ずついる、という状況でした。パルクールで生計を立てている人がいたので「トリッキングでもできるはず」という自信があり、練習と仕事を両立しながら地道に力をつけていきました。 ―弟のReijiさんと共に、2016年に世界大会で優勝したというお話がありますが、その時の様子を聞かせてください。 D:アメリカで開催された世界大会でした。「2人で一旦勝ってやろうぜ」というくらいの気持ちで出場したんです。当時働いていたバク転教室が新体操をやっている教室で、男子新体操には技を揃えて演技をする文化があり、そのイメージが強く残っていて。「シンクロさせた方がいいんじゃないか」と考えて演技を組み、当時のトリッキング界にはまだシンクロという文化自体がなかったこともあって、そのまま優勝することができました。兄弟なので技の系統も近く、綺麗に揃えられていたのが強みでしたね。 ―Reijiさんから受ける影響、あるいは競技上のスタイルの違いについて教えてください。 D:得意な技が似ている部分もあれば、まったく違う部分もあります。同じスタイルだと勝てないので、「自分はこの技をやる」というふうに差別化しながら練習してきました。弟は技をどんどん加算していって総合点が高くなるスタイルですが、僕は短く大きなつなぎを2つか3つ決めるスタイルで。手数で勝負するか、1つの大技で勝負するか、という違いがありますね。ソロで動く時にはそのスタイルの違いが強みになっていると思います。 ―オリジナルのトリックもお持ちだとか。 D:「Daisukeサイドフリップ」という、自分の名前をつけたかっただけの技があります(笑)。ただ、アクロバットというもの自体がすでに世の中にありふれているので、新しい単体の技を生み出すのは難しく、オリジナルの技を持っている選手はシーンの中でも少ないです。難易度はひねりの回数などを基準に判断されますが、オリジナリティやクオリティの部分はジャッジ次第で評価が大きく変わる部分でもあります。 この投稿をInstagramで見る Daisuke Takahashi 高梁 大典(@daisuke_takahashi_ttm)がシェアした投稿 「TOK¥O TRICKING MOB」始動の経緯と、パフォーマーとして譲れない軸 ―パフォーマンスチーム「TOK¥O TRICKING MOB」はどういった経緯で結成されたのでしょうか? D:トリッキングで仕事をするならパフォーマンスを持っていないとダメだと思っていたので、地元で一緒にやってきたメンバーや弟を誘って作ったチームです。 人数が違うと技の形や滞空時間が変わってくるので、動きを揃えるのは簡単ではありませんが、体力的にもかなりハードな中で鍛えてきました。 ―チームとして見せ方にこだわっているポイントはありますか? D:ピュアなトリッキングで見せる場面を多くすることを大切にしています。アクロバット系のパフォーマンスグループは数多くありますが、その中でも小細工をせず、ありのままのトリッキングを見せることにこだわっています。そもそもそんなに分かりにくい競技ではないので、飛んで、ひねって、回る、というシンプルな部分を丁寧に見せることを意識していますね。 ―SNSでの発信も意識している部分はありますか? D:下の世代が「仕事してるな、この人たち」と思えるような見え方を意識しています。技の動画やキャリアの記録として発信することで、次に続く選手たちに「これで食べていけるんだ」という背中を見せたい、という思いがあります。 武術とストリートの"間"にある美学。トリッキングというカルチャーの可能性 ―音楽やファッションなど様々な仕事につながっていく中で、トリッキングというカルチャーの良さやかっこよさをどう感じていますか? D:トリッキングという一つの軸を持っておくと、他のジャンルとすごく融合できるんです。ブレイクダンスの中に入れてもいいし、コンテンポラリーやアクションの中に入れてもいい。武術とストリートの間にあるという立ち位置自体がかっこいいなと思っています。 大会でも道着を着て出場する選手もいれば、ガムを噛みながら指輪をつけて出場するような選手もいます。国によっても色合いが違って、韓国では道着で出場する選手や、ブラジルではカポエラを彷彿とさせる装いの選手もいました。 ヨーロッパは武術のルーツが薄いこともあり、比較的ストリート寄りな雰囲気を感じます。一方で日本はやや競技的、アスリート寄りな傾向があると感じていて、そういった多様性もまたトリッキングというカルチャーの良さの一つだと捉えています。 次世代へ伝えたいこと、そして「極限武術」に懸ける想い ―後進の指導で大切にしている軸やマインドはありますか? D:チャレンジすることを何より大切にしています。日本は基礎を重視する国だと思いますが、発展の姿を見せないまま基礎だけを練習させても、何のための基礎か分からなくなってしまう。その先に何があるのかを見せながら、チャレンジと基礎の両方を大事に教えています。技術面だけでなく、楽しんでやってもらうことも大切にしていて、生徒同士が互いを盛り上げ合うカルチャーづくりを心がけています。 ―Daisukeさんが主催する大会「極限武術」について教えてください。 D:今年で5年目になります。都内でトリッキングの大会を開催すること自体が簡単ではなく、これまで3年連続で八王子の会場を使ってきましたが、少し都心から離れているという課題もありました。元々はオリンピックにつなげたいという思いで始めた大会なので、来場した方に「すごい大会だった」と思ってもらえるものにしたいという気持ちで取り組んでいます。 メインとなるバトルの魅力は、選手それぞれのスタイルの違いが色濃く出るところにあります。技の種類自体はそれほど多くないため、工夫を凝らしてスタイルを差別化した選手がトップに上がってくる。普段の練習が記録的な意味合いを持つのに対し、バトルではそのスタイルがぐっと際立って面白いんです。 バトル以外にも体験ブースなどを設けていて、トリッキングというフィルターを通して、それぞれが自分に合った道を見つけてもらえればという思いを込めています。競技として突き詰めるのも良いし、パフォーマンスとしてエンタメの世界で生きていくのも良い。トリッキングを通じて何かを得てもらえたら、というのが毎年の願いです。 ―スコア制度の導入など、競技面での新しい取り組みについて聞かせてください。 D:オリンピックを見据えた大会である以上、明確なスコアが出る仕組みが必要だと考えました。従来は「右か左か」という判定が中心でしたが、スコア制にすることで、1本目の出来が2本目、3本目にも合計点として反映される、よりスポーツらしい競技性を持たせることができています。 また、靴を履いて出場する部門も新設しました。トリッキングは「床がないとできない」という前提を超えて、単独のカテゴリーとして一人歩きできるようにしたいという試みです。安全面の配慮から技には一定の制限を設けつつ、クリエイティビティやスタイルで加点していく仕組みにしています。パフォーマンスとして持ち運びやすいコンテンツになるという点でも、選手たちが今後仕事にしていく上で重要な要素になると考えています。 プレイヤーとしての目標——「トリッキングだけで武道館を埋めたい」 ―今後のトリッキングの競技化や、日本のシーンについて描いている未来はありますか? D:ストリートスポーツとしてのカルチャーは自然に育っていくと思っています。競技人口が増えれば、何十年か先にオリンピックというのも十分にあり得る話です。僕個人がどうこうというより、そこに少しでも貢献できる動きを続けていきたい。ストリートシーンと競技としてのシーンの両方が、綺麗に育っていくといいなと思いながら活動しています。 ―Daisukeさん自身のプレイヤーとしての直近の目標は何ですか? D:直近ではアメリカのプロ団体の大会でチャンピオンになりたいという思いがありますが、そこまで強く固執しているわけではありません。個人的な目標としては、トリッキングの選手だけで武道館を埋めれるようなものを作っていきたいですね。決して遠い未来の話ではなく、2、3年くらいのスパンで実現できると思って取り組んでいます。 ―最後に、この記事を読んでいる読者や「極限武術」に興味を持っている方へメッセージをお願いします。 D:僕自身、他のカルチャーの大会にも足を運んできましたが、本気でオーガナイズされた大会を生で見ることで得られるものは、映像や情報だけでは得られないものだと感じています。この記事を読んで実際に会場に足を運ぶというのは一つのハードルかもしれませんが、それを超えて来場した時には、必ず食らわせるような大会になっていると思います。時間があって興味があれば、ぜひ会場に来てください。 「極限武術」イベント概要 日時:2026年8月22日(土)・23日(日)場所:八王子エスフォルタアリーナ メインアリーナ(東京都八王子市狭間町1453-1)内容:トリッキングを中心とした、武術・アクロバット・ストリートカルチャー・パフォーマンスを融合した2Daysイベント 【実施予定コンテンツ】・Hero Cup・Kids Battle Under15・Female Open・Open Rizing Battle・Asia Tournament Battle・Kick Hop・スタジオ対抗チームバトル・2on2 Battle・バスケ3on3・Daisuke ワークショップ・キッズルーム・フォトスペース・Jam MVP部門・各決勝前パフォーマンス Daisuke Takahashiプロフィール トリッキング選手、スタジオ経営者、パフォーマンスチーム「TOK¥O TRICKING MOB」主宰。10歳でトリッキングを始め、独学で競技を磨く。2016年、弟・Reijiとのシンクロパフォーマンスで世界大会優勝。現在は都内でスタジオを3店舗展開しながら、レッドブルクリエイターとしても活動。2022年より、トリッキングの祭典「極限武術」を主催しており、2026年大会は8月22日・23日に有明アリーナにて開催予定。
-
dance2026年、新たなストリートダンスの競技化が決定! KATSU ONE×NOBUOスペシャルインタビュー【前編】2026.08.12ブレイキンがダンススポーツとして歩み始めてから、およそ10年。その間、世界大会や全日本選手権が整備され、選手たちの競技への向き合い方や、社会からの映り方も大きく変化してきた。そして今、その経験を受け継ぐように、ブレイキンをはじめとするストリートダンス全域にもダンススポーツとしての新しい道が拓れようとしている。先日、公益社団法人日本ダンススポーツ連盟(以下、JDSF)によって「ストリートダンス部門」が新設されることが発表された。これにより、ブレイキンだけに留まらず、ストリートダンス全域のジャンルがスポーツ、いわゆる競技化される。これはストリートダンスシーンからすると歴史的な快挙である一方で、シーンへの理解を醸成することは必須だ。スポーツ競技の側面を持つことで、ストリートダンスは何を得られるのか。長い時間をかけて育まれてきたカルチャーやコミュニティとは、どのように向き合っていくのか。JDSF「ストリートダンスカテゴリー」のスポーツマネージャーに就任したNOBUOと、ブレイキン日本代表のナショナルコーチを務めるKATSU ONEが、ブレイキンの10年を振り返りながら、ストリートダンススポーツのこれからについて語り合う。【前編】 想像を超える時代へ|ブレイキンが拓いた道 KATSU ONE: ブレイキンがオリンピック競技になったことで、ダンスそのものに対する世界のアンテナが、かなり高くなったと思うんです。ブレイキンも、ダンススポーツの一つのカテゴリーです。そこからストリートダンスにも目が向けられるようになって、WDSF(世界ダンススポーツ連盟)でもストリートダンスを扱う流れが生まれました。僕としては、「やっと、この流れになったんだな」と感じています。NOBUOさんはブレイキンを外側から見ていて、どう感じていましたか? NOBUO: 率直に「すごい時代になったな」と思っていました。僕は仕事柄、昔からブレイキンをやっている人たちが周りにいたので、そういう人たちが大きく取り上げられているのを見ると純粋に嬉しかったですね。他ジャンルのダンサーと話していても、みんな「ブレイキンはすごいね」と言っていました。実家に帰ると「おじいちゃんやおばあちゃんが、テレビでブレイキンの大会を見ていた」という話も聞くようになりました。それまでダンスに触れてこなかった人にも届いている。そこは本当に大きな変化だと思います。 Ⓒ公益社団法⼈⽇本ダンススポーツ連盟 KATSU ONE: やっぱり、そう見えていたんですね。僕たちが活動を始めた頃は、こういう未来を実現したいという想いはあっても、現実にはかなり難しかった。でも、いつか実現できるようにと取り組んできました。世界中でブレイキンをする人が増えて、様々な国で世界大会が開催されるようになった。そして2018年のユースオリンピックで採用されたときは、もちろん驚きましたが、心のどこかでは「やっと気づいてもらえた」という感覚もあったんです。今回、ストリートダンス全域がダンススポーツの中に入っていくのも、同じようなタイミングなのかもしれません。 NOBUO: ブレイキンが先にその道をつくってくれたことは、ストリートダンスにとって本当に大きいと思います。10年前であれば「ストリートダンスがスポーツになる」と聞いたとき、もっと強い違和感があったかもしれません。でも、ブレイキンが歩んできた道をみんなが見てきたからこそ、「ついにストリートダンスにも、そういう時代が来たんだ」と受け止める人が多いのではないかと感じます。 スポーツ化により、ダンサーはどう変わったのか KATSU ONE: 一番大きく変わったのは、ブレイキンに明確な目標ができたことです。以前は、何のために取り組むのか、どこに焦点を当てて活動していくのかを、一般の人にも分かる形で示すことが難しかった。正式にスポーツとして認められたことで、社会からの見られ方が変わりました。挑戦する選手たちの意識も変わっています。大会に出る以上は勝利を目指しますが、ただ練習して技術を高めるだけではありません。目標に向けて計画を立て、自身の栄養管理やコンディショニングまで考えるようになりました。自分たちが踊っていることの意味が、社会に対して伝わりやすくなった。それは大きな変化だったと思います。 Ⓒ公益社団法⼈⽇本ダンススポーツ連盟 NOBUO: 特に若い世代にとって、目指す場所が見えるようになったことは大きいですよね。地方でダンスをしている子たちは、以前なら、映像やSNSなどで世界の舞台を見ても、自分からは遠い世界のように感じていたと思います。でも今は、ブレイキンをしている子どもたちの中に「自分もそこへ行きたい」と本気で頑張る子がいる。そういう環境があることを、うらやましく感じるほどです。 KATSU ONE: 全日本選手権のような公式大会も生まれました。その結果を学校に示せるようになり、強化選手として活動したことが大学進学に繋がった例もあります。僕たちが若い頃は、ダンスの実績が進学に繋がるなんて考えられませんでした。そこにも、ブレイキンが社会に認められるようになったことの価値を感じます。それと、僕自身、最初の頃は「なぜメダルを取らなければいけないんだろう」と感じていたんです。でも、日本を背負って世界大会に出て、金メダルを獲得したときに国歌が流れる。その光景を目の当たりにしたときは、本当に感動しました。国を背負って挑戦すること、そのためのプロセスを考えること、そして結果が公のものとして多くの人に届くこと。それも、スポーツとして取り組む中で得た大きな経験でした。 スポーツか、カルチャーか NOBUO: ブレイキンでは、世界選手権や強化選手という言葉が、今では浸透していると感じています。でも、これから始まるストリートダンスでは、「強化選手とは何だろう」「どの大会を目指せば、どこに繋がるんだろう」というところから説明していかなければなりません。 ストリートダンスはジャンルも幅広いですし、「何をストリートダンスとするのか」という議論も出てくると思います。ブレイキンの10年を経験してきたKATSU ONEさんが、最初から大切にしてきたことは何ですか? KATSU ONE: ひとつは、ブレイキンとは一体何なのかを理解し、伝えることです。どのように生まれ、なぜ40年以上に渡り世界中の若者に支持されてきたのか。ブレイキンやヒップホップの歴史、背景、そこにある価値を大切にしてきました。もう一つは、スポーツの側面を理解することです。僕たちにとってはゼロからのスタートで、スポーツの世界では当たり前のことも分からなかった。一方で、スポーツに携わる方々は、僕たちのカルチャーを知らないこともあります。正直、最初は「ブレイキンはスポーツじゃない」と反発する気持ちもありました。でも、スポーツにはスポーツの素晴らしさや、積み重ねてきた仕組みがあります。そこに入っていくのであれば、僕たちのカルチャーが持つ素晴らしさと、スポーツが持つ素晴らしさの両方を理解する必要があると思ったんです。「スポーツなのか、カルチャーなのか。」と聞かれたら、僕の答えは「どちらも」です。ブレイキンはブレイキンだから、どちらの形でもできる。その考えはずっと大切にしています。 Ⓒ公益社団法⼈⽇本ダンススポーツ連盟 NOBUO: その考え方は、ストリートダンスでも大切にしたいです。ストリートダンスはとても幅が広いので、最初から「これがストリートダンスです」と狭く定義するのは難しい。僕自身、まだ知らないジャンルがありますし、地方と都市部では考え方に違いがあるかもしれません。だからこそ、様々な人の意見を聞き、自分も学びながら進めたいと思っています。日本のストリートダンスには、世界から見ても独自の文化がある。その文化を大切にしながら、ダンススポーツとしてのストリートダンスを、社会と繋がるきっかけの一つにしたいんです。 KATSU ONE: ストリートダンスはブレイキン以上に複雑で、形にしていくのは大変だと思います。でも、ブレイキンが先に経験したことを生かしながら、スポーツとしての道をきちんとつくることができれば、社会に向けて新しい可能性を拓くことができると思います。大切なのは、ストリートの部分を忘れないことですよね。それを忘れて、ダンススポーツをつくることはできないと思います。 バトルとコレオグラフィー|具体的な種目について KATSU ONE: ブレイキンは1対1のバトルを中心に進んできましたが、最初のユースオリンピックでは、男女混合の2対2も行われました。今では2対2や3対3もあり、ブレイキンだけを見ても、ひとつの形式に限られなくなっています。ストリートダンスでは、バトルと、複数人で作品を見せるコンテスト形式が考えられているんですよね。 NOBUO: はい。大きく分けると、ダンスバトルとコレオグラフィーの2つです。バトルについては、様々なジャンルを最初からひとつに混ぜてしまうことに、僕自身は少し抵抗があります。それぞれのジャンルに対するリスペクトを持ちたいからです。まずはジャンルごとの1対1のバトルを入り口にしたいと考えています。ただし、一度決めた形をずっと変えないということではありません。実施しながら意見を聞き、時代やシーンの変化に合わせて育てていくものだと思っています。 Ⓒ公益社団法⼈⽇本ダンススポーツ連盟 KATSU ONE: コレオグラフィー部門のほうは、チームで作品をつくり参加する形式ですか? NOBUO: そうです。チームや団体など、複数人でひとつの作品をつくり、コンテスト形式で参加してもらうことを考えています。こちらは幅広い表現を受け入れられるものにしたいです。小中高のダンス部や同好会で活動している子たちにも、ぜひ参加してもらいたいと思っています。 KATSU ONE: 学校でダンスをしている子たちにとって、甲子園のような目標になる可能性もありますね。 NOBUO: 本当に、そうなってほしいです。僕自身が地方で育ったからこそ、地域で活動する子たちが目指せる大会にしたいという想いがあります。自分の学校や地域、都道府県を背負って全国に出ていく。そして、地域のみんなが熱量を持って応援できる。そこまで育っていったら素晴らしいと思います。 Ⓒ公益社団法⼈⽇本ダンススポーツ連盟 世界へ繋がる明確な道に NOBUO: 元々、僕自身岩手出身で、大学時代にストリートダンスに出会いました。最初から「ダンスをやりたい」と思って始めたわけではありませんでした。大学の仲間に誘われて、何となくやってみた。でも、そこから夢中になった。ダンスを通して先輩や友達と繋がり、後輩もできました。県外のイベントに参加すれば、そこでも仲間が増えていった。どこへ行っても、自分の中には「青森の弘前でダンスをしている」という軸がありました。卒業して東京で就職することも考えましたが、そのとき、ダンスとの向き合い方だけでなく、ダンスを通して出会った人たちとの関係も変わってしまうような気がしたんです。それほど、僕にとってコミュニティは大きな存在になっていました。だから今回の取り組みでも、全国のどこにいても「自分も本気で頑張っていいんだ」「日本一を目指していいんだ」と思える環境をつくりたいと思っています。学生だけではありません。社会人になってからも、自分の地域を背負って挑戦できる。競技を離れた後には、後輩を育てたり、地域で大会を運営したりすることもできる。そうやって経験を地域に還元する流れが広がってほしいと思います。 KATSU ONE: ブレイキンも10年取り組んできて、同じことを考えています。競技の仕組みについては、僕たちが経験した事例を伝えたり、助言したりできる。でも、根本にある想いは、ブレイキンもストリートダンスも一緒なんだと思います。NOBUOさんにとって、ストリートダンスの一番大きな価値は何ですか? Ⓒ公益社団法⼈⽇本ダンススポーツ連盟 NOBUO: たくさんありますが、ひとつを挙げるならコミュニティです。大会に出なくても良いし、体を動かすことが楽しいというだけでも良い。ダンスを通して友達ができたり、誰かを応援したり、誰かに教えたりする。人によって、ダンスとの向き合い方は色々あります。でも、ストリートダンスが持つコミュニティは、本当に素晴らしいものだと思うんです。一度やってみれば、人生が変わるかもしれない。それくらいの力があると思っています。今、ストリートダンスに関わっている人たちは、それぞれ信念を持って活動しています。その姿や価値を、ダンスを知らない人たちにも伝えたい。そして、踊る人だけでなく、応援する人も含めて、何らかの形でこのコミュニティに関わる人が増えてほしいと思っています。 KATSU ONE: 僕たちも、ブレイキンをライフスタイルにすることを大切にしてきました。生活の中に当たり前にブレイキンがあることで、仲間との関わり方や、様々な学びが生まれる。そこはストリートダンスも同じですね。スポーツでは、ときに「結果が全て」という見方をされることがあります。でも、僕たちはその考え方を変えたい。勝ち負けではないところにも素晴らしさがあり、取り組んでいること自体に意味がある。そこにも光が当たるようにしたいと思っています。 NOBUO: 今のダンスシーンでも、バトルに出て、予選で負けたらすぐにその場を後にするという姿を見かけます。でも、ストリートダンスの魅力は、結果だけではありません。「なぜ自分は踊っているんだろう」と一度立ち止まって考えれば、ダンスを通して友達ができたことや、人を応援する楽しさに気づくかもしれない。ダンススポーツという新しい道をつくることが、ストリートダンス本来の魅力を改めて考えるきっかけにもなれば良いと思っています。 Ⓒ公益社団法⼈⽇本ダンススポーツ連盟 選手だけではない|ダンスから広がるキャリア網 NOBUO: ブレイキンはダンススポーツとして取り組むことで、競技者にはどのようなキャリアが生まれましたか? KATSU ONE: 競技者としてナショナルチームに入り、プレイヤーとして活動する道があります。でも、それだけではありません。公式の審査員や指導者、地域の選手を育てるコーチ、さらにナショナルチームの指導に携わる道もあります。大会ではMCやDJとして出演する人もいれば、運営スタッフとして支える人もいる。連盟の仕事や大会運営に加えて、スポーツビジネスやスポーツマネジメントを学ぶきっかけにもなります。ブレイキンがダンススポーツになったことで、新しいキャリアの選択肢は確実に増えたと思います。ただ、僕は、ヒップホップを心の底から経験した人は、どの業界に行っても通用すると思っているんです。人と向き合い、自分で考え、挑戦を続ける。その中で培われる人間力は、ダンス以外の世界でも生きてきます。 NOBUO: ストリートダンスでも、学生から社会人になるときに、踊ることをやめなくていい環境をつくりたいです。競技を続けてもいいし、地域で指導者や運営側になってもいい。Dリーグのようなプロの舞台を目指す道もあれば、自分の生活に合った形で踊り続ける道もあります。ダンススポーツが、長くストリートダンスに関わるためのプラットフォームのひとつになれば良いなと感じています。 Ⓒ公益社団法⼈⽇本ダンススポーツ連盟 新たな歴史を、全員で創っていく KATSU ONE: カルチャーとして取り組むことと、ダンススポーツに挑戦することは、別々の世界に見えるかもしれません。でも、どちらかをやめなければいけないわけではありません。ダンススポーツとして挑戦することで、新しい価値や、まだ知らない世界に出会える可能性があります。それはキャリアの中でのひとつの大きなチャンスです。少しでも挑戦してみたいという気持ちがあるなら、ぜひ一歩を踏み出してほしい。一緒に戦いながら、新しい世界を創っていきたいと思います。 NOBUO: ダンススポーツとしてのブレイキンが歩んできた10年があったからこそ、今、ストリートダンスにも新しい部門が生まれようとしています。道を創ってきてくださった皆さんへの感謝を忘れず、僕自身ももっと勉強しなければならないと思っています。この取り組みが、ストリートダンスに関わるすべての人と社会が、よりよく繋がるきっかけになってほしい。そして、これからもっとダンスを頑張りたいと思う子たちにとって、目指せる環境のひとつになってほしいです。ダンススポーツとしてのストリートダンスに一歩足を踏み入れて、ここからまた新しい歴史を、みんなで一緒に創っていきましょう。 プロフィール KATSU ONE(石川 勝之)ブレイクダンス本部長として2018年に就任。国内外の大会での優勝経験と豊富なワークショップ実績を持ち、世界のブレイキンシーンに大きな影響を与え続けてきたBBOY。現在は公益社団法人日本ダンススポーツ連盟(JDSF)ブレイクダンス本部長として、日本における競技ブレイキンの発展と国際競技力向上を牽引している。 ブレイキンがユースオリンピック、そして2024年パリオリンピックの正式追加種目へと発展していく過程においては、日本国内の体制構築や競技化の推進、選手強化・サポート体制の整備を主導。パリオリンピックではブレイキン種目のコーチとして日本代表選手を支え、女子種目において金メダル獲得という成果に貢献した。カルチャーとスポーツの両立という難題に向き合いながら、日本の取り組みは国際的なモデルケースとして評価されている。 自身の活動の根底には、ストリート文化が「人々の間での共通言語」であり、「グローバル人材を育てる機会」であり、「人格形成のための教育」であるという信念がある。その思想のもと、ストリートダンスおよびストリート文化の発展と、次世代の育成に力を注ぎ続けている。 2018年には川崎市にて「WDSF世界ユースブレイキン最終予選」の招致と2025年久留米市にてWDSF世界ブレイキン選手権を実現し成功へ導いたほか、同年のブエノスアイレスユースオリンピックではブレイキン日本代表監督として金メダル2つ、銅メダル1つを獲得。以降も日本代表の強化・育成に深く関わり、世界トップレベルの競技力を支える体制づくりに貢献している。 また、教育的視点からのアプローチにも力を入れており、体育教員免許を背景に、ダンスを通じた人間力の育成や国際的視野の醸成を重視。ブレイキンの持つ文化的価値とスポーツとしての可能性を融合させ、日本と世界をつなぐ存在として活動を続けている。 NOBUO(岩渕 伸雄)岩手県出身。弘前大学ストリートダンスサークルA.C.T.に所属し、ダンスを始める。大学院修了後、2008年にダンススタジオ「FUNKY STADIUM」をオープン。2012年、弘前市で芸術舞踊に関する活動を発展させるため、「ひろさき芸術舞踊実行委員会」を設立。2016年、弘前城本丸にて大規模野外フェスティバルSHIROFES.を開催。2021年、国が主催する「スポーツ文化ツーリズムアワード2021」で SHIROFES.が国内最高賞「スポーツ文化ツーリズム賞」を受賞。自身もダンサーとして活動し続け、更には育成などにも力を注いでいる。ダンススタジオ事業・イベント事業、レッドブルジャパン(株)のダンスコンテンツプロジェクトディレクターも務める。2023年10月より弘前大学大学院博士課程に進学。「カルチャーに対する熱量が及ぼす影響について」をテーマに研究も行っている。
-
[PR] bmx「一歩踏み出してみることが可能性を広げる」BMXレーサーからプロボートレーサーへ転身。上田龍星が体現する挑戦の軌跡2026.07.17BMXレーシングというフィールドで培った技術と経験を武器に、12年前にまったく異なる世界へ飛び込んだアスリートがいる。それが現在プロボートレーサーとして第一線で活躍する上田龍星(うえだ・りゅうせい)選手だ。 幼い頃からBMXレーシングに打ち込み、国内トップクラスの大会で経験を積んできた上田。しかし競技を続ける中で、自身の将来やキャリアについて真剣に考えるようになり、新たな挑戦として高校卒業を機にボートレースの世界を選んだ。 競技は変わっても、勝負に向き合う姿勢は変わらない。コンマ数秒を争うスタート、一瞬の判断が左右するレース展開、極限まで研ぎ澄まされた集中力。BMXレーシングで培った身体能力や技術、そしてプレッシャー下での決断力は、ボートレースという全く異なる競技でも確かな武器となっている。 2015年にボートレーサーとしてデビューすると、着実に実績を積み重ね、現在は大阪支部所属のA1級レーサーとしてSG・G1の舞台へも活躍の場を広げ、トップレベルの戦いに身を投じている。 競技人生は一つの道だけではない。上田龍星の歩みは、競技を続けることに悩み、セカンドキャリアを模索するアーバンスポーツ選手に新たな可能性を示している。競技が変わっても、アスリートとして培った力は新しいステージで必ず活きる――。自らのキャリアでそれを証明し続ける上田選手に、今回FINEPLAYは特別インタビューを行った。 上田龍星 (以下:U) 「かっこいい!」に魅了された青春時代。成長を追い求めたBMXレーサーとしての原点 ― 上田選手が幼少時にBMXレーシングを始めたきっかけを教えてください。 U:元々、父がBMXをやっていた影響で、初めて大阪府堺市の大泉緑地公園のBMXコースへ連れて行ってもらいました。その時ちょうど開催されていたレースで、選手たちがセクションをジャンプする姿に「すごいな!かっこいいな!」と目を奪われ、「僕もBMXレースをやりたい!」と父に伝えたのが始めたきっかけです。小さい頃からとにかくBMXでジャンプすることが大好きで、少しずつセクションを飛べるようになってくると「次はこの大きいセクションを飛んでみよう!」みたいな感じで、楽しみながら無心で成長を追い求め、レースをしていた小学生時代でした。一方で、同年代の仲間と切磋琢磨するうちに、「上達していく周りの選手に負けたくない」という気持ちが芽生え、自然と中学、高校でも競技を続けていました。当時はとにかくBMXレーシングが楽しくて、周囲もBMXライダーばかりの環境だったこともあり、ほかの道を選ぶことなんて全く考えていませんでした。 ― 上田選手の学生時代は、プロを目指してアメリカへ渡るトップ選手が増えてきたり、BMXレーシングがオリンピック競技に採用され始めたタイミングだと思います。将来はどうなりたいと思っていましたか? U: 当時は国内最高峰カテゴリーのエリートクラスへの昇格を目標にしており、「国内外で活躍する先輩選手たちのように色々な大会で勝てるようになりたい」とずっと思っていました。ただ、明確にプロになることを目指していたわけではなかったので、将来についてそこまで深く考えていなかったのが正直なところです。部活や趣味の延長のような感じで、学生時代の僕はただBMXレーシングが楽しくて、「もっと上手くなりたい!もっと速くなってレースで勝てるようになりたい!」という思いで競技を続けていたのが第一でした。 「BMXレーシング一本で食べていくのは厳しい」18歳の決断と、未知なるボートレース界への挑戦 ― BMXレーシングからボートレースへ挑戦することを決めた経緯を聞かせてください。 U:高校卒業のタイミングで今後どうしていくかを考えていた時、BMXレーシング一本で食べていくのは、僕の実力では少し厳しいと感じていました。もしこのままBMXを続けるにしても、まずは仕事をしないといけないと思っていたんです。先輩選手たちがBMXレーシングから競輪へ転向し、セカンドキャリアへ進む姿を見てきましたが、自分は先輩方に比べて体格が華奢で、脚力・体力ともに劣るため、競輪の世界は厳しいと考えていました。そんな時に、偶然ボートレースを勧めてもらう機会があったんです。当時は正直、ボートレースのことは全く知りませんでした。ただ、それまでBMXレーシング一筋で他にやりたいこともなかったため、「まずは一度受けてみよう」と思ったのが挑戦することを決めたきっかけです。 退路を断って臨んだ養成所時代。厳しい規律の中で鍛えられたプロボートレーサーとしての土台 ― ボートレーサー養成所時代を振り返るとどういう日々を過ごされましたか?U:BMXレーシング業界やストリートカルチャーの良さでもありますが、最低限の礼節は重んじつつも、年齢を問わずフランクに接する環境で過ごしてきました。そのため、ボートレーサー養成所の入所当初は、教官に怒られっぱなしの厳しい日々に圧倒され、「すごいところに来てしまった。これを1年間も耐え抜けるのだろうか」と戸惑うばかりでした。初期はボートに乗ることはほとんどなく、礼儀作法や集団行動の規律を叩き込まれる「教練」から始まります。そこから水上での操縦訓練、モーター整備といった専門実技に至るまで、プロボートレーサーに不可欠なスキルを段階的に習得する期間がありました。例えば、具体的には毎朝きっちり6時に起きて3分以内に外に出ることや、布団の畳み方といった日常の礼節など、様々な形で一人の人間としての素養を鍛えられました。厳しい環境ではあったのですが、「ここをクビになったら他にやることがない」くらいに思っていたので、まずは養成所を絶対卒業するという一心で、とにかく頑張りました。振り返ってみると、プロボートレーサーとしてだけではなく社会人としても成長させていただいた期間であり、忍耐力もついたので、自分の人生においても非常に大事な経験でした。 ― その厳しい環境の中で、普段どういうことを意識して過ごしていましたか? U:さまざまな訓練や準備は正直しんどいことも多かったのですが、基本的にはボートに乗っている時間が一番長いんですよね。だから普段の生活でも「どうすればもっと上手く乗れるのか」を考えて、その上達していく過程を一番の楽しみにしようと、気持ちを切り替えていました。ボートに乗っている時間は唯一1人になれるので、純粋に自分の成長にフォーカスできます。そこではBMXがとにかく上手くなりたくて頑張っていた幼少期の感覚を思い出せましたし、このキャリアの先に広がるプロとしての成功に思いを馳せながら日々練習に励んでいました。 ― 養成所を卒業してからプロボートレーサーとしてレースに出るまでのプロセスを教えてください。 U:卒業後1〜2ヶ月は地元のレース場で練習しながら、本番レースの1日の流れを先輩方に教えてもらう研修期間でした。ボートレーサーは、レースに出場する以外にもたくさんの仕事があるんです。当時は新人だったため、さまざまな庶務をはじめ、先輩のボートの水抜きやモーターの組み立てなど、レース外の仕事を実地で学ばせてもらいました。また、モーターをボートに乗せる作業も一人で行ってはいけない決まりなので、自分のことばかりに集中しすぎないよう、広い視野を持つことを意識しました。先輩の動きを見て「自分がどう動くべきか」を考えたり、レース以前の社会人としての集団行動や、仕事としての1日の流れなどを色々と教えてもらいました。 その期間を経て迎えたデビュー戦ですが、なんと終盤のレースで初めての1着を獲ることができました。宿舎の同部屋の先輩方にプロペラの調整方法や乗り方のアドバイスを頂いて、その通りにしたら上手く展開が向いてくれたんです。デビューまでの研修期間でしっかり先輩方から学ばせてもらったことが活かされたなと感じました。 ― いちボートレーサーである以前に社会人として成長させてもらえる環境なのだと感じました。 U:そうですね。プロボートレーサーも、社会人として働くという意味では一般的な職種と変わりません。覚えるべき業務は数多くありますし、色々な人と関わりながら働く以上、いかに周りを見てその場その場で必要な仕事をできるかが大前提になります。その上で、プロのボートレーサーとしてレースに出場させていただき、応援してくれる方やレーサーを夢見る次世代に夢を与える立場にあるのだと感じています。そうして経験を重ねるうちに、多くの人間関係が生まれ、自分という存在を知ってもらえるようになりました。今では様々なレースの機会に恵まれ、オフの日には気兼ねなく話せる同期や先輩、後輩も増えています。そうした繋がりや機会を得るためにも、この新人時代にどれだけ努力できるかが、のちのキャリアを大きく左右するのだと実感しています。 BMXレーシングの技術が活かされる水上の駆け引き。上田龍星の代名詞「思い切りのあるターン」が誕生した2つの競技の共通点 ― ちなみに競技面でも深掘りさせていただきたいのですが、ボートレースで結果を残すために重要なのはどのような点でしょうか? U:前提としてBMXレーシングと異なる部分でいうと、ボートレースでは自分専用の機材を使えないという点です。レースの1節ごとに使用するボートとモーターが抽選で決まるので、毎回異なる機材の性能を見極める能力が不可欠です。モーターも全くパフォーマンスが良くないものから反則級に良いものまで様々なので、引いた機材の特性に合わせて、自分の乗り方を変えたり、プロペラ等の機材調整を工夫したりすることが勝利への絶対条件となります。また常にトップの成績を残す選手は、単に機材の調整能力やボート操作の技術力が高いだけでなく「レース展開を組み立てる能力」に長けています。ボートレースは予選勝ち上がり方式で行われるのですが、常に1着を狙うようなリスクの高い走り方をすると、逆に最下位の6着になってしまう確率も上がります。そのため「ここは最低でも3着を確保する」といった着順のコントロールと戦略的なポイント獲得が、予選を着実に勝ち抜くために非常に重要なのだろうと、トップ選手を見ていて思います。僕もまだコンスタントではありませんが、優勝を重ねるうちにレース感覚は掴んできました。BMXレーシングの大会でも同じように競い合ってきたので、その過去の経験が活きていると感じています。 ― 技術面では、BMXレーシングとボートレースの共通点を感じますか? U:どちらも不安定なマシンを操ってレースをする点は共通しています。ボートレースもターン中は座らないので、BMXで培ったバランス感覚が活かされていると感じます。あとはレース中の駆け引きですね。BMXレーシングでいうコーナーでの「インアウト」や、「ハイロー」といったアウトからインに入っていくライン取りの判断が、ボートレースの「差し」に近い部分がありますし、BMXレーシングの一瞬の判断で戦ってきた感覚は、現在のレースにそのまま直結していると思います。 ― ボートレースでは体重移動やスタートも重要かと思います。この点でもBMXレーシングと共通する感覚はありますか? U:体重移動でボートを少し浮かせてウイリーで引き波を越える時は、BMXレースでセクションを越える時に前輪をあげる「ピックアップ」みたいな感覚に感じることがあります。バランスを崩して転倒しそうになった時にも、BMXのジャンプの時に空中で体が勝手に耐えようとする能力がいきているのか、周りから「龍星って転びにくいよな」と言われることもあります。 スタートの面でも、待機行動からピットアウトする際のタイミングが、BMXのスタートゲートに近い感じはします。後ろで係留機に掴まれている状態でシグナルが3つ光って離れる瞬間にタイミングを合わせるんですが、そういうリズム感や体の動かし方はBMXレーシングの技術を活かせていると思います。 ― ご自身のボートレーサーとしての強みはなんだと思いますか?U:唯一自信を持って言えるのは「思い切りのあるターン」ですかね。レースデビューしてすぐの頃に「速いターンをする方が絶対に勝ちやすい」と思い始めたんです。最初はなかなか上手くできずによく転覆していたのですが、土やアスファルトの上を走るBMXレースに比べたらボートレースは水上ですし、変な転び方さえしなければそこまで怪我もしないと考えました。そうやって、思い切りスピードのあるターンを徹底して練習してきたことが、今では自分の強みになっていると感じています。また、そういう意味でも、今では最上級のランクであるA1級で戦わせてもらっているので、このようなBMXレーシングで培った技術や感覚が活きて、ここまで来れているのかなとも思います。 最上級ランク「A1」レーサーの上田龍星が目指すさらなる高み。次なる目標はボートレース最高グレードのレース「SG」でのタイトル獲得 ― 今年で11年目を迎える上田選手ですが、今後プロボートレーサーとして実現したい目標はありますか? U:僕の同期や後輩でもSGやG1などの大きい記念レースでタイトルを獲っている選手がたくさんいるんですけど、僕はまだタイトルを獲れていないので、まずそういった記念レースで勝てるように努力しないといけないと思っています。特に最高峰のSGレースに出るためには明確な条件があるのですが、僕はたまにクリアして出場できることがあっても、コンスタントに毎回出られているわけではありません。そのため、しっかり条件を満たして毎年出場できるようになることを目標とし、取り組んでいきたいです。そして最終的にはSGレースでタイトルを獲得できるように、今後も挑戦し続けたいと思っています。 ― 改めて、BMXレーシングの背景を持つ上田選手が感じるボートレースの魅力を聞かせてください。 U:BMXレーシングをはじめとするアクションスポーツやアーバンスポーツとも共通しますが、「会場だからこそ肌で感じられる臨場感」こそがボートレースの魅力です。レース場には、エンジン音や水しぶきなど、映像では分からないその場限りの感覚があります。それも含めて観戦することで、競技の迫力や緊張感を心から楽しんでいただけると思うので、他のスポーツと同様にぜひ会場に足を運んでほしいです。 「失敗を恐れず、一度思い切って挑戦してみてほしい」セカンドキャリアに悩む若手アスリートへ伝えたいこと ― 上田選手の経験からセカンドキャリアに悩むアーバンスポーツ選手へ伝えたいことはありますか? U:今までずっとやってきたスポーツを急に辞める決断は考えづらいことだとは思いますが、別にもう1個挑戦したいことがあるのなら、思い切って一歩を踏み出してみるのも一つの道だと思います。 ― 挑戦しようと思ってもなかなか一歩踏み出せない時の指針はありますか? U:「失敗したらどうしよう」と考え出すと体が止まってしまうじゃないですか。僕はある意味何も考えていなかったくらいだったので、それがちょうど良かったと思うのですが、もし少しでも挑戦したいことがあるのなら、まずはトライしてみて欲しいと僕は思います。その選択肢がボートレースであれば、養成所に応募できる年齢には30歳未満という制限もあります。もし若いうちに挑戦できるタイミングがあって悩んでいるなら、たとえその道が上手くいかなくても人生はまだまだ長いので、一度挑戦してみるのがいいのかなと思います。 ― 最後に、上田選手にとって「挑戦」とは? U:僕自身もまだまだ次の目標に向けて挑戦している最中で、皆さんと同じ立場です。綺麗な回答にはならず申し訳ないのですが、僕にとって挑戦とは「まずは一歩踏み出してやってみる」ことだと思っています。ぜひ一緒に夢を持って挑戦していければと思いますし、ボートレースの世界で共に戦う仲間に出会えれば嬉しく思います。 上田龍星 プロフィール 1995年7月15日生まれ。大阪府出身のボートレーサー。117期生として養成所を卒業し、2015年にボートレース住之江でデビュー。着実に経験を積み重ね、現在は大阪支部所属のA1級レーサーとして全国各地のレースに出場し、あらゆる舞台で活躍を続けている。鋭いスタート力と冷静なレース運び、卓越したターン技術を武器に、トップレーサーが集う舞台でも存在感を発揮。安定した成績を残しながらさらなる飛躍が期待される選手の一人である。2025年の獲得賞金は約4,800万円、生涯獲得賞金は3億円を超えている。(2026年7月16日時点) なおボートレーサーになる以前はBMXレーサーとして活動しており、同競技で培った高い身体能力や瞬時の判断力、勝負強さは現在のレーススタイルにも生かされている。異競技から転身を果たし、第一線で戦い続けるキャリアは、ボートレース界でも注目を集めている。
-
others日本人だから強い、を証明しにいく。 TATSUYA / SOME≡LINEZインタビュー2026.07.12津軽三味線、ヒューマンビートボックス、ストリートダンス——一見まったく異なる3つのジャンルを掛け合わせたパフォーマンスチーム「SOME≡LINEZ(サムライン)」が、結成からわずか2年半で世界の注目を集めている。ニューヨークのHip-Hop Museum(THHM)にコンテンツが寄贈され、日本国内では演歌の大舞台でのコラボレーションも記憶に新しい。TikTokでは半年でフォロワー10万人を突破し、現在のSNS総フォロワー数は90万人を超え、その勢いは止まらない。 しかしその台頭は、決して偶然ではない。そこには周到な戦略と、20年を超えるキャリアが生み出した深い哲学がある。チームの中核を担うビートボックスプレイヤー・TATSUYAに、結成の経緯から「和」という武器の可能性、そして次世代へのメッセージまで、余すことなく語ってもらった。 TATSUYA(以下:T) 「何か残さなきゃいけない」という衝動が、SOME≡LINEZの原点にある。 ―まずはSOME≡LINEZについて教えてください。どのようなチームで、どのようにして結成に至ったのでしょうか。 T:津軽三味線とヒューマンビートボックス、そしてストリートダンスの3つのジャンルを掛け合わせた、唯一無二のスタイルで活動しているパフォーマーチームです。僕目線で言うと、ビートボックスをずっと20年ほど続けてきて、いろんな世界に挑戦してきたんですけど、「日本人として生まれ育ったルーツや自分自身のアイデンティティをいかに表現に取り込むか」で評価されるんだなっていう感覚がずっとあって。そこが出発点になっています。 T:今から11年前、僕が30歳のときに、津軽三味線の柴田雅人と共通の知り合いを通して知り合いました。一緒に演奏する前からすごくフィーリングが合っている感じがして。音を出し合いながらお互いのすごさを感じる関係になって行きました。 そこから2人でちょくちょく活動していましたが、コロナで演奏する場所が一気に失われてしまって。その時に、ダンサーのFLAVAという僕の後輩がいて、「新しいことを始めたいんですけど、一緒にできませんか」って相談してきたんです。じゃあ三味線の柴田も巻き込んで3人でやろうかってなったのが、SOME≡LINEZの結成のきっかけです。今から2年半ぐらい前ですね。 左から柴田雅人、TATSUYA、FLAVA ―TATSUYAさん個人として、なぜそこまでビートボックスや表現活動に情熱を注いでこられたのか、そのルーツを聞かせていただけますか。 T:高校生ぐらいのとき、自分が死ぬ夢を見たんですよ。それがめちゃくちゃ怖くて、学校に行けなくなるんじゃないかくらいまで精神的に追い込まれた時期がありました。自分なりになぜこう感じるのか分析していたときに、死ぬこと自体は意外とあっさり受け入れられました。ですが100年後に自分のことを覚えてくれてる人が世の中にいなくなった時に、自分の存在証明みたいなものはどこにあるんだろうなと思って。それが失われることがすごく怖くなったんですよね。 だから「何か残さなきゃいけない」っていう衝動に駆られました。映画監督になって作品を残すとか、アパレルブランドを作るとか、いろいろ探したんですけど見つからなくて。デザインの専門学校に入った20歳のときに、たまたまビートボックスに出会ったんです。当時、全国でまだ30人ぐらいしかやってなかったですね。 「これは今からならワンチャン有名になれるかも」と思って、音楽経験ゼロで始めたのがきっかけです。そこから24歳の時に世界大会に出て、帰国してすぐに一般社団法人・日本ヒューマンビートボックス協会を設立して、「ジャパンビートボックスチャンピオンシップ」という全国大会を主催するようになっていきました。そういう積み重ねが今に繋がっています。 ―「SOME≡LINEZ」という名前には、どんな意味が込められているんですか? T:「いくつかのライン」という意味で、それぞれ違う道で極めた3人が一つになるっていう意味でつけました。しかも真ん中に3本線の記号があるんですけど、あれは数学で「合同」を表す記号なんですよ。いくつかのラインを合わせた時に、自分たちにしかできない一つの表現があるっていう意味も込めていて。それともちろん、「サムライ」ともかけています(笑)。 ―TikTokでは半年でフォロワー10万人を突破したとのことですが、この反響についてはどのように感じていましたか? T:正直、プレッシャーはあまりなかったです。TikTokとInstagramの2つから同時にスタートしたのですが、どちらかが10万フォロワーを超えるまでは個人のアカウントで活動しているとは言わないって方向で進めていて。 目標値は10万だったので、「せめて10万はいかないと」という感覚でしたけど、プレッシャーというよりは「もっと早くもっと多く行くだろう」っていう期待値の方が高かったです。SOME≡LINEZというチームへの自信はかなりありましたね。 ―当初、メンバーが誰なのかを公表せずに活動されていたんですよね。そこにはどういった意図があったんでしょうか。 T:半分はかなり実験的な挑戦な部分があって、半分は計画的というところがあります。僕らが今まで各ジャンルで積み上げてきたスキルや実績、例えばヒューマンビートボックスのTATSUYAっていうだけで評価されてしまうような部分も一度フラットにして、3人の技術や見せ方、表現方法だけでどれぐらい世間に評価されるのかを見てみたいよねという部分。もう一つは、これで伸びなかったら恥ずかしいよねっていうのも、正直ありました(笑)。 ―業界内では、音を聞けばすぐ誰かわかるものなんですよね。 T:そうなんですよ。ビートボックスのシーンは狭いので、聴けばわかる人にはすぐわかったみたいで。公表してから「やっぱりお前がやってたんか!」となったりとか(笑)。でも大々的に表明するのは10万人フォロワーを超えてからにしようと決めていたので、それまではひたすら実力だけで評価してもらえたのかなという感じはありますね。 3人が追求する、かっこよさと分かりやすさの「極限のバランス」。 ―グループ内では明確にリーダーを決めていないというのも特徴的ですが、それはなぜですか? T:それぞれが、いろんな側面でリーダーシップを発揮する部分があって。演歌や和楽器業界のフィールドに関しては柴田雅人が動いたり、SNSの発信ではFLAVAが動いたり、その他の業務は僕が請け負ったりと、バランスがあるんですよね。あえてリーダーを決めずに、3人がSOME≡LINEZのために、っていう共通認識で同等のポジションでいることを大事にしています。 あとはそれぞれのカルチャーにリスペクトをもって優劣をつけないという側面もあります。 ―異なるバックグラウンドを持つメンバー同士で、チームとしてのマインドをどうやって統一していったのでしょうか。 T:正直、マインドを「統一する」っていう作業はほとんどしていないんですよ。それぞれが自分のジャンルで最前線に立ってきたプライドがあるから、お互いの専門分野に対するリスペクトは自然に生まれていて。むしろ「SOME≡LINEZのために」という目的が一致してるから、細かいすり合わせをしなくてもそれぞれが動ける。その関係性が心地よいんだと思います。 ―津軽三味線、ビートボックス、ストリートダンスという異なるジャンルを融合させる上で、一番意識していることは何ですか? T:常に大事にしなきゃいけないなと思ってるのが、「かっこよさ」と「分かりやすさ」のバランスですね。かっこよさに振りすぎると伝わらなくなって逆にダサくなる。でも分かりやすすぎると、今度はキャッチーになりすぎてしまう。サッカーみたいにメジャーな競技ではないので、知っている層と知らない層がいて、その両立を目指すってなるとすごく難しいラインなんですけど、そこのバランス感にはかなり気を使っています。 ―練習や制作の段階で苦労したことはありますか? T:一番大事にしなきゃいけないなと思ったのが、楽曲がオリジナルで作れるかどうかというところでした。多くのパフォーマーって有名アーティストの曲でパフォーマンスするのが基本じゃないですか。でも、音自体もオリジナルでどこまで追求できるかをパフォーマンスと融合しないと、パフォーマー業界の次がないなっていうイメージがあって。視覚的にもそうだし、音楽的にも、クオリティよりもオリジナルかどうかをすごく大事にしてます。 ―パフォーマンスや映像にはアートやデザインの要素も組み込まれています。そのあたりのこだわりを聞かせてください。 T:「余白を残すパフォーマンスをしないといけない」ってことは常に考えています。それはビートボックスをやってた時もそうなんですけど、コラボしやすい状態、誰かと何かやりやすい状態を常に保つっていうのがすごく重要で。完成されちゃうとダメなんですよ。ラッパーとコラボしたり、シンガーとコラボしたり、他のダンサーとコラボしたりと、いろんなのとコラボしやすいパッケージを常に保つっていう意識でいます。そこも含めてバランスの良い3人の編成になっていると思いますね。 ビジュアルで言うと、和をテーマにしたコスプレ的に見られることもあるとは思うんですけど、その懸念はあえて飛び込んでいるというところもあります。本質的に僕らが何をしていきたいかと言ったら、日本人であることの強みや、津軽三味線という武器を世界に知ってもらうためにどうすればいいかというのが根幹にあります。より伝えたい人たちに伝わりやすい形を取った結果が、今のスタイルなんです。 ヒップホップの聖地が認めた「和の力」。本場からの反響と、SOME≡LINEZが譲らない軸。 ―先日、ヒップホップの聖地・ニューヨークのHip-Hop Museum(THHM)とのコラボレーションが大きな話題になりました。現地での反応はどうでしたか? T:まず、ヒップホップカルチャーとして僕らが大事にしてきたアートや音楽、ファッションを新しいスタイルで発信していくという部分が、しっかり評価されたという認識がかなり強くなりましたね。 例えば、Wu-Tang ClanのMethod Manが「日本に新しいヒップホップの風が吹いている」みたいな感じで、もう7回ぐらい動画を投稿してくれていて。それに加えて、Hip-Hop Museumに僕らのコンテンツが寄贈されて飾られることになって。やってきたことがヒップホップの芯の部分に伝わったんだなっていうのが立証されて、一安心というか、めちゃくちゃ嬉しかったですね。 ―そうした海外での反響と、日本国内での反応には違いがありますか? T:日本では最初、コンサートやフェスに出させてもらう時に、なんか色物的な扱いというか、「変わったやつが出てきた」みたいな感じもあったんですよ(笑)。でも、パフォーマンスを見てもらうと結構衝撃みたいで、ファンの方が日本でも少しずつ増えているという印象があります。 直近では、MUSIC AWARDS JAPAN2026の演歌歌謡曲部門で細川たかしさんとコラボレーションさせていただいたのですが、普段のヒップホップ文脈とは違う、かなり異色な組み合わせで。今後のSOME≡LINEZの活動の中でも記憶に残るものになったと思います。 ―ライブでの反響も、また独特のものがあると聞きましたが。 T:SNS向けに作ったコンテンツでは仮面とか傘をつけているんですが、ライブだと邪魔すぎて途中で取っちゃうんですよ(笑)。僕はマスクをつけたままじゃビートボックスしづらいし。で、外した後のMCトークがめちゃくちゃ喋るんで、お客さんが「こんなに面白い人たちなんですね!」ってなって(笑)。MCも含めて評判をいただくことが増えていて、日本ならではのライブができてるなって感じています。 ―ヒップホップなどのアンダーグラウンドカルチャーから熱く支持されつつ、日本の地上波をはじめとするマスへのアプローチも視野に入れている。その中でSOME≡LINEZとして絶対に譲らない軸はありますか? T:本質的に僕らがやりたいのは、日本人であることの強みや、津軽三味線という武器を世界に知ってもらうことです。そこの軸はブラさずに行きたいですね。外国人に寄せていくのではなくて、「伝えたい人たちに伝わりやすい形を取る」というのが今のスタイルに行き着いた理由で。その軸さえブレなければ、形をいろいろ変えられると思っています。 ―日本らしさを導入することで生まれる唯一無二のオリジナリティについて、海外のプレイヤーやオーディエンスと向き合う中でこの「和の要素」が持つ破壊力や可能性をどのように感じていますか? T:最近SNSを見ると、甲冑を着たパフォーマーとか、テクノロジーを使ったものとか、いろいろ出てきてるんですけど、本質がつかめてないなっていう印象が全体的にあって。ライブとして見せられるのか、SNSの映えだけなのか。本当に海外が求める日本の姿なのか、それとも自分たちが日本だと思って見せているものなのか。そこが計算されていないことが多いなという感覚です。僕らはそこを分析し尽くしてやってますし、だからこそここまで来れていると思っています。 「カルチャーとは、社会とリンクして初めて生まれる。」SOME≡LINEZとして次世代に見せたい景色。 ―プロフィールには「パフォーマーの新たな可能性を広げる」「地域や社会と向き合い、新たな仕組み作りを目指す」とあります。具体的にはどのような活動を考えていますか? T:まず知名度をしっかり上げて、影響力をしっかり持たなきゃいけないなと思って今の活動を続けているのですが、最終的に社会に何ができるか、どんな影響を与えられるかというところにリンクしないとカルチャーだとは思えなくて。社会を切り離してかっこいいもんだけ作ってればいいっていう考えが、僕にはあんまりないです。 例えば、障害を持たれている方が僕らみたいなことを実現できる世界にしたりとか、和楽器の魅力を伝えたりとか、日本人らしさの魅力を伝えたりとか、常に何か自分たちにできるんだろうみたいなのを考えながら行動していきたいなと思っています。 ―三味線をはじめとする和楽器の文化をSOME≡LINEZを通じてどう伝え、広めていきたいですか? T:津軽三味線をはじめ、世界における和楽器の認知度はまだまだ高くない印象です。僕らも他国の民族楽器に詳しいかと聞かれたら「Yes!」とは答えられないのと同じですね(笑)。でも、僕らにもできることがあるなと思っていて。ビートボックスと一緒にやることで、津軽三味線に興味がなかった層の人たちに急に刺さるっていうのが、SOME≡LINEZの可能性の一つだと思っています。 文化を守るっていう意味でも、国籍・年齢・言語などあらゆる境界線を超えて新しくかっこいい形で伝えていく方法として、SOME≡LINEZはすごく機能すると思っています。 実はかなり緻密な計画があるんですけど、今回はまだお話できない部分もあって(笑)。でもまずは、世界中の人に「和を取り入れたパフォーマーといえばSOME≡LINEZ」と言ってもらえるぐらい、5本の指に入る知名度をつけていきたい。それがないと、実現したいことが難しくなってくるので、今はひたすら影響力をつけていきたいですね。 ―メンバーそれぞれが世界で活躍してきたバックグラウンドを持っていますが、SOME≡LINEZを通じて、次世代のプレイヤーたちにどんな景色を見せていきたいですか? T:社会とどう共存していくかみたいなのを常に模索しながら、和楽器の魅力や日本人らしさの魅力を伝えていく。そういう形のパフォーマーのあり方を見せていきたいなと思っていて。ビートボックスだって、かつては日本に30人しかいなかったのが、今は本当に広がっているじゃないですか。同じことを、今の和楽器業界でもできると思っていますし、それを実際に体現してみせることが、次の世代へのメッセージになると思っています。 ―最後に、この記事を読んでいるFINEPLAYの読者、国内外のストリートプレイヤーたちへメッセージをお願いします。 T:まずは、自分にしかできないこと、自分にしかやれないポジションを、誰よりも早く見つけてほしいなと思っています。それを続けていく上で自分の居場所にもなるし、やりがいにも繋がっていく。どんな業界でも、誰にでもそのポジションはあるはずで。大きいとか小さいとかは関係なくまずはそれを探すっていうことが、とても重要なことだと思います。 TATSUYAプロフィール ヒューマンビートボックス日本&国際チャンピオン 20歳でBEATBOXを始め、2009年にはロンドン、ドイツ、そしてニューヨークのApolloTheaterに出演する等、世界的に活動。 ヒューマンビートボックス日本一決定戦 JapanBeatboxChampionshipではソロ、 チームを合わせて日本で唯一の4年連続優勝を果たし、 2014年フランスで行われたLA CUPにて日本人初の世界4位を獲得。2016年にはシンガポールで開催された国際大会にて日本人初の優勝を獲得。ももいろクローバーZのコンサートやディズニー・オン・クラシックにスペシャルゲストとして出演。 また世界で活動する中で、日本のBEATBOXシーンを盛り上げたいという思いを持ち、2010年6 月に一般社団法人日本ヒューマンビートボックス協会を設立。現在は福島県郡山市に株式会社tentoTenを設立し、東京、福島、静岡を中心に活動中。 SOME≡LINEZプロフィール 日本の伝統楽器「津軽三味線」ストリートカルチャーから「HUMAN BEATBOX」、「STREET DANCE」世界観を視覚的に表現する「ART & DESIGN」異なるいくつもの要素を掛け合わせた世界“唯一無二”のパフォーマンスチーム。結成約2年半でSNS総フォロワー数90万人を突破。日本の伝統と現代ストリートカルチャーが交差する、新時代のアート・エンターテインメント。






