2025年10月18日(土)、ダブルダッチの学生日本一決定戦『Double Dutch Delight Japan 2025』が、神奈川県川崎市・カルッツかわさきで開催された。
Double Dutch Delight (ダブルダッチデライト) は毎年開催される、パフォーマンス種目世代別No.1 を決める全国大会。上位チームは、12月14日(現地時間)アメリカはニューヨーク・タウンホールシアターにて開催される国際大会『National Double Dutch League Holiday Classic』(以下、NDDL)に進出する権利を含めたダブルダッチ本場体験ツアーが与えられる。
なお大会は今年で20周年を迎えたこともあり、オープニングセレモニーには特別ゲストとしてIJRU会長であるショーン・ハミルトン氏が登壇。今大会の開催の激励と今年の夏に同じく川崎で行われた世界選手権の開催の感謝を述べ、大会は幕を開けた。

今大会は大学生のOPEN部門、小学生から中学1年生までのNOVICE部門、中学2年生から高校生までのADVANCED部門、年齢不問の一般部門の4つに分かれる。なお今大会へはEAST、WEST、NORTH、SOUTHの地区から上位入賞したチームのみが参加できる本当の意味で今年の日本一を決める戦いとなった。
毎年大盛況となるOPEN部門は、今大会の最注目部門。Japan大会は前年度 OPEN部門の優勝チームの出場地区で開催されることが慣例となっており、ここ3年はEAST地区のチームから優勝が続いている。この記念すべき20周年の節目の大会でトロフィーを掲げるのはどのチームか、またこのJapan大会が来年はどの地区で開催されるのかなど、今年は各チームが特別な気持ちで出場する中、終始熾烈な戦いが繰り広げられた。
一般部門

一般部門ではWEST地区代表として挑んだ『Junk Swing』が、洗練された構成と確かな実力で見事優勝を掴み取った。音楽と一体化したリズム感あふれる演技に、ロープトリックやアクロバットの迫力を融合させ、華やかさと力強さを兼ね備えたステージを披露。次々と繰り出される技の連続に、一瞬たりとも目を離せないパフォーマンスで観客の心を惹きつけた。
NOVICE部門

NOVICE部門では、EAST地区代表として挑んだ3人チーム『A.C.Z 』が見事優勝を掴み取った。全員がフロア・アクロバットを取り入れた迫力のステージは、観客の目を釘付けにし、その場の空気を一気に引き込んだ。ラスト曲に差し掛かるにつれボルテージは最高潮に達し、ダイナミックな動きと息の合ったパフォーマンスで、会場全体を熱気で包み込んだ。
ADVANCED部門

ADVANCED部門では、接戦を競り勝ち優勝に輝いたのはWEST地区代表として挑んだ『BASKU RATCH』。
ステージの最初から耳に残る特徴的な音や動きで観客を自分たちの世界に引き込み、ジャンプスキルやロープスキルの両方を随所に盛り込んだダイナミックかつ緻密な演技を披露。ラストまでその世界観を貫き、観客を最後まで惹きつけた。
OPEN部門
そして、OPEN部門。大会最注目のこの部門では20周年の節目に相応しい大接戦が繰り広げられ、終始固唾を呑んで結果を待つようなジャッジも頭を悩ますハイレベルな甲乙付け難い展開となった。
3位はEAST地区、日本体育大学・乱縄所属の『珠華』 が入賞した。
同日午前に行われた敗者復活戦を勝ち上がった勢いそのまま、OPEN部門一発目から会場を沸かせるパフォーマンスを披露。チャイナテイストの美しさと迫力を兼ね備えた演技で、観客を魅了した。

なお、敗者復活戦から入賞するのは、2021年『Roar』、2023年『黄金パンダ艦隊』、2024年『SHOWMEN TOPPER’s』に続き、現行選出ルールに移行してからこれで4度目。さらに3年連続の敗者復活戦からの入賞となり、挑戦するチームの熱意と意気込みが際立つ結果となった。
2位にはEAST代表として挑んだ『第一天空部隊』(R2所属) が輝いた。
所属サークル R2 にとって史上初のJAPAN出場となった舞台で、見事2位入賞を果たした。
曲が流れた瞬間からラストまで、演者一人ひとりの表情の豊かさが印象的で、観客の視線を釘付けにした。終盤には選手宣誓のような一場面もあり、所属サークルの名を背負って挑む意気込みと熱量が舞台全体に伝わった。
パフォーマンス後のMCでは MC YUI/REG☆STYLEも思わず涙を見せるほど、観客の心に刺さるステージとなった。

そして栄えある優勝に輝き、トロフィーを掲げたのはEAST地区「東京大学 D-act」より『Fuzzy Bud Hub』!!

ステージ冒頭から華麗なロープワークとジャンプで観客を夢中にさせ、個々の高いスキルと表現力を惜しみなく披露。随所に見せる緻密な技で、圧巻のパフォーマンスに。
抜群の安定感と全員が持つ華、そしてチーム仲の良さが融合した完成度の高い演技で、優勝を果たした。
さらに、この結果からダブルダッチサークル「東京大学 D-act」としてJAPAN OPEN部門3連覇を達成。またFuzzy Bud Hubはメンバー全員が2年生という若いチームということもあり、来年以降の活躍にも大きな期待がかかる。

なお、今回も優勝者インタビューとして大会直後のFuzzy Bud Hubの選手たちのコメントが本記事の末尾に掲載されている。今大会に挑むまでのアクシデントやそれを乗り越えたチームワークを感じられる等身大の彼らの言葉の数々を是非ともご一読いただきたい。

ゲストショーケース

各部門の熾烈な戦いが終わり、選手たちが固唾を飲んで結果を見守る中、特別ゲストである日本が世界に誇る若手ブレイキンクルー「XII After Ours」とダブルダッチプロチームである「REG☆STYLE」「NEWTRAD」「FLY DIGGERZ」「Millennium Collection」によるゲストパフォーマンスが披露された。
特に20周年を記念したこの4つのプロダブルダッチチームからなる合同ショーケースには会場は大盛り上がり。豪華なオールスターたちがこの20周年を祝った。





編集後記

2025年という年は、日本で初の世界選手権大会が開催されるなど、ジャンプロープ史においては“転換点”といえるような年となった。そこに重なるように、ストリートの聖地・川崎で開催された20周年のDelight Japan。
「歴史」といえば、それは容易い。しかしその「歴史」の正体は、先人たち──これまでの選手やスタッフ、キャストや観客たち…多くの人々が流した汗や涙のことである。
そして我々はそれらによって築き上げられたものの上にいることを、ここで感謝と畏敬の念と共に、改めて申し添えておきたい。
この大会を始めたころ、そこにいた人々はこの景色を想像できたであろうか。煌々と輝くステージを背に、原竹氏・千野氏や、MCを務めるKENSAKU氏が語った言葉の一つひとつには、私たちの想像を超えたヒストリーがあった。
Delightという言葉に込められた〈歓び〉という意味。この場所でそれを感じられるチームはごく僅かなのかもしれない。しかし、この舞台に挑戦する過程で得たものが、きっと人生において輝き、歓びとなるに違いない。
ダブルダッチデライトは、これからも多くのダブルダッチャーの夢をのせ走り続けることだろう。そしてこの日流れた汗や涙は、やがて「歓び」となり、いつかの「歴史」となって、次なる世代のダッチャーたちへ光を与えていく。

OPEN部門優勝『Fuzzy Bud Hub』へインタビュー!
左から ユート・エリカ・カナタ・チサ・ヒナ
──まずは優勝おめでとうございます。今のみんなのお気持ちを聞かせてください。
ヒナ
私たちは2年生で、このチームでDelightに出場すること自体が初めてだったんです。そして本当は6人チームなのですが、怪我でシュンが出場できなくなって5人になってしまうなど、いろんなハプニングもありました。
本当に私たちはメンタルが強くなくて、そのたびに打ちのめされていたのですが… 今はなんかもう夢みたいで、もはや何が起こっているか分からないです(笑)。
──じゃあみんなあまり実感が湧いていないと。発表の際、名前を呼ばれて涙していたシーンもあったと思うんですが、それは実感とはまた違う感情だった?
エリカ
そうですね、衝撃で涙が流れちゃった感覚です。少し時間が経って、今は私も「なんでここにいるんだ…?」みたいな気持ちになっていますね(笑)。
──さきほどみんなハプニングを経たことや、あとは「メンタルが強くない」と話してくれましたが、そういったハンデもあった中でも優勝できたことは、単なる偶然ではないと思っています。そもそもメンタルが強くても1位になれるわけではないし。
そこで自分たちでこの夏を振り返ってみて、どういったところに勝因があったと思いますか?
チサ
それでいうと、まずメンタルが弱いということを自覚しているので、大会中は他のチームのパフォーマンスは見ずに集中していました。自分たちにあった対策や、出来うる最善のことはできたのかなと。
あとはJSDDLのサマーキャンプに行ったり、いろんなイベントに出場したり、スタッフをやったりと、コツコツ自分たちのことを広めていって、色んな人に応援してもらえるようになったなとは思っています。
カナタ
僕は仲の良さかなと思っています。フュージーはよくコミュニケーションを取っているんですよね。舞台袖の待機中もパフォーマンス中もよく喋りました。
あと会場の近くで練習をしているときも、いつも通り話していて。緊張もしたんですけど、みんながいるしいけるでしょと思えたことが勝利に繋がったなと感じました。
──ちなみにどんな会話を?
エリカ
しょうもない会話とか、あとはカナタがするモノマネで笑ったりしていました(笑)。
──なるほど(笑)。でも素敵ですね。
コミュニケーションというところで1つ聞きたいんだけど、当然チームとして大会に出る以上、チームとして向き合わなければならない瞬間もあったと思います。
そういうとき、みんなはどのようにコミュニケーションを取っていたのかなと。
ヒナ
実はJapan大会の1週間くらい前に、私が本当にメンタルブレイクしてしまったんです。周りのチームも圧倒的に強いことを知っていたし、私たちもダブルダッチ歴は長いけれど、Japan大会に出た経験はなかった。
チームの方針として、各技を易しくしてリスクを低め、ミスのない演技をすることを重視していたのですが、それでは勝てないのではないかと思ってしまったんです。不安で気持ちが落ちて落ちて、落ちまくって。
でもそのとき、チームメイトが「みんなで通せば勝てるでしょ!」って言ってくれたことが大きかったです。それを信じてやってこれました。
──みんなはヒナに声をかけたときって自信はあった?
一同
ないです(笑)。
エリカ
その点に関しては、コーチのYoshihiroさんの存在も大きかったです。この大会からコーチになっていただいたのですが、Yoshihiroさんがずっと「ノーミスこそが正義」って言ってくださっていて。
最初は私たちも半信半疑だったんですが(笑)、それをずっと聞いていて、かつ練習を進めていくうちに信じられるようになったんです。
──最近の傾向として、自分の実力に自信がないから攻める選択をするチームも多いと思うんですが、その中でフュージーのみんなは逆の選択をしたと。
実際、守りに入ったなって感覚はありましたか?
一同
めっちゃありました(笑)。
──(笑)
チサ
でもそれ以上に、みんなで「身の丈にあったパフォーマンスをしよう」という共通認識でしたね。

──ただ、守りに入ったにしては技術力の高さも感じるパフォーマンスだとは思ったんですが、どのような練習をしていたのか教えてもらってもいいですか?
ヒナ
今回だと3分弱のパフォーマンスで、それを4分割して、2〜3回通るまで次のパートにはいけない、というような練習をしていました。
最初はやっぱり全然次に進まないんですよ。最初のほうでつまづいたりして1時間とか経ってしまったりもして。けれど、だんだん慣れてくるにつれて一発で終えられることも増えてきて。
これを私たちは「鬼練」と呼んでいます(笑)。
ちなみにカナタが考案してくれたのは、普段は2回、雨の日だと「気分が下がるから」という理由で3回になっています。理由はよく分かりません(笑)。
チサ
この3回という設定も、例えば「1回目:ただ跳ぶだけ → 2回目:50〜60%くらいの体感 → 3回目:100%」と設定して、次ミスしたら一からだからというプレッシャーを与えていたんですが、それが本番のようなプレッシャーの環境下で練習できていたのかなと感じます。
■ アクシデントを乗り越えて
──少し時系列が前後しますが、先ほどフュージーは怪我でチームメイトが1名欠けてしまった状態で大会に臨むことになったと話してくれたと思います。
気持ち的にも技術面でも大変だったと思いますが、どのようにしてそのアクシデントを乗り越えてきたのでしょう?
ヒナ
みんなで落ち込みました。泣きました。終わった…って思ったけど、少しずつ時間と共に落ち切ったからこそ、ここから上がるしかないなとも思えるようになりました。
そしてシュン自信も相当落ち込んだと思うのですが、「やっぱコイツがいないと勝てないなって言われるまでリハビリ頑張る」とメッセージをくれて、私たちはもうやるしかない、思いを背負って勝つしかないなと感じさせてくれました。
──さまざまな紆余曲折を乗り越えて、憧れだったJapanのステージに立つことになりましたが、パフォーマンス中や直後はいかがでしたか?
ヒナ
私は緊張しすぎてあんまり記憶がないですね。
気がついたらステージから捌けていました(笑)。
エリカ
もう、超楽しかったです(笑)。
ただ実は少しだけミスもあって、私の中では見せきれなかったことが悔しさもありますね。(周囲からはミスに)気付かないと言われたりもしましたが、そこはちゃんと“ノーミスの顔”をできたことも良かったのではないかなと。
──ダブルダッチは特性上、ミスが分かりやすくパフォーマンスの流れに大きく影響を与えてしまうと思うのですが、そのとき心の中ではきっと「あっ…」となってしまうと思います。
そういう無意識下のことまでちゃんと修正するのって、やっぱり計り知れない積み重ねがあったということですよね。
エリカ
私は表情に出やすいタイプで、小学生のときからずーっとそうなんです。コーチのYoshihiroさんや指導してくださった方にも指摘を受けたり、チームメイトからは半ば怒られたりもして(笑)。
とにかく色んな人に指摘されて直せたと思うので、マジで感謝しています。
──ちゃんとそういう指摘もしあえていることがよいですね。
チサ
例えば誰かの気持ちが落ちちゃって、というときは、一緒に沈んでしまうこともありますけど、じゃあ他のみんなでどうでもいい話で盛り上げようとか、ピリピリしているときは和らげようというような、状況を見てバランスを取ることも大事だと思いました。
ヒナ
それでも全員が沈んでしまったときは、一旦練習を切り上げて解散しちゃうこともあって。意外と次の日はケロっとしてることもあります。
カナタ
変に遠慮する関係でもないですし、思ったことは伝えた方が結果にもつながると思うので、言い方さえ気をつければ伝えるべきだとは思っています。
ユウト
今のようにエリカの表情のこともそうですが、みんなそれぞれが、それぞれの弱点を理解して補い合えることが強さだと思っています。例えば僕であれば、技のシルエットが良くないから、みんなで一緒に考えていこうとか。
お互いの弱点を伝え合い理解しあって、質の良いものにできたことが結果につながったと思っています。
──皆さんの話を聞いていても実感しますが、フュージーのパフォーマンスは全員が意見をしっかり擦り合わせて、表情や意識的なところも統一されているなと感じました。
ヒナ
例えば表情が1つ潰れてしまっただけでも、観る側の受け取り方が全く変わってしまうよね、というようなことまで、色々と話していた気がします。
チサ
そうですね。私はこうがいいと思う、いや自分は… という意見の差って絶対にあるんですが、しっかりと意見を言い合って納得する形に落とし込むことが一貫性に繋がっていると思います。
ただ言語化しているとはいえ、「ここはニヤッって感じで」とか(笑)。
全てを事細かに言葉にしてるわけではないけど、その「ニヤッ」もどういう感じなのかということも話したりはします。
■ シュンがいたら絶対いけるっしょ
──さて、みんなはまだ2年生ということもあり、いわば“追いかける側”で走ってきたけど、ここからは名実ともに“追われる側”となります。
来年のDelightが皆さんのラストとなるわけですが、ここから先に対する思いや目標だったり、考えていることがあれば教えてください。
チサ
本番前の緊張も、今回は「ラストイヤーじゃないから…」と自分たちに言い聞かせてリラックスさせてきたんですが、それがもうできないのでどうしよう、とは思っています。
カナタ
でもシュンがいたら絶対にいけるっしょ、とも思っていますね。
来年は6人で優勝したいと思っています。
ヒナ
私たちのサークルであるD-actは、私たち以外にも同期がめちゃくちゃ強いんです。5チームいて、今回は惜しくもJapanのステージには立てなかったけれど、順位や点数も高いほうで。だから5チーム全員、同期みんなでJapanのステージに立てたら良いなと思っています。
エリカ
私はカナタに勝つことですね(笑)。
カナタ
えっ(笑)。
エリカ
お互いキッズの頃からダブルダッチを始めていて、お互いのことを初めて知ったのが高校時代。当時からずっとカッコいいプレイヤーだなと思っていました。
高3の最後に一緒のチームを組んだんですが、自分のパートよりもお客さんを沸かせていて、めっちゃ悔しかったんですよね、それが(笑)。
なので「フュージーで一番カッコいいのはエリカ!」って言われるようになりたいと思っています。
そして、さっき“追われる側になる”という話があったと思うんですが、自分が追いかけてきた人ってみんな自信がある人たちなんですよ。
だから私、これからはなよなよした自分からは卒業します。そして自信を持って自分を魅せ切って、カナタを超えます。
──全然なよなよしているようには思えないくらい力強いコメントだったけど(笑)。ありがとうございます。他の皆さんはいかがでしょう?
ユウト
僕は2つあって、まず1つは「JOKER」* の存在を広めたいと思っているんです。
*JOKER:松本深志高校 ダブルダッチ部の名称。大会での入賞歴もある強豪校で、多くの有名プレイヤーを輩出している。
ユウト
正直最近JOKERはあまり強くはなくて、ただ名前が知られているような感覚なんですが、その自分のルーツであるJOKERのことが広がって、後輩たちに夢を与えられたらいいなと思っています。
あともう1つは、世代間で最強の“3倍ヤー”(3倍を跳ぶプレイヤー)になりたいですね。近い世代にすごい上手い方々もいるんですが、「3倍ヤーといえば?」と聞かれたとき、自分の名前が挙がるようなプレイヤーになりたいです。
チサ
チームメイトがみんなすごく上手で、私はもっと自信をもってフュージーにいれるように努力しないといけないと思っています。みんなにおんぶに抱っこは悔しいので。正直、貢献できたかは分からないですが、もっと自信を持ってそう言えるように頑張りたいですね。
──側からみると決してそんなことはないと思うんだけどね。ただ、自分で自信を持てる感覚というのはまた違いますからね。
では最後、リーダーのカナタくんはいかがでしょう?
カナタ
D-actの最盛期はここだぞ、ってことですかね。
エリカ
うわー、ちょっとそれ答えじゃん(笑)。
カナタ
D-actとしてはDelight Japanで3連覇していて、2023年のBølge、2024年のNoA-NoAと好調なんですが、いやここだぞ、俺らの代が一番ヤバいんだぞ、って思わせたいです。
僕ら22期が最盛期を築き、そしてその筆頭格がFuzzy Bud Hubであればいいな、と思っています。
大会概要
『Double Dutch Delight Japan 2025』
日時:2025年10月18日(土)
会場:神奈川県川崎市・カルッツかわさき
主催:一般財団法人日本ジャンプロープ連合(JJRU)
共催:川崎市
協賛:コムテック株式会社 / カシオ計算機株式会社 / 株式会社JTB / JBL
オフィシャルサプライヤー:NEW ERA / STANCE
主管:日本学生ダブルダッチ連盟(JSDDL) / OVER THUMPZ
SPECIAL EDITION
FINEPLAYはアクションスポーツ・ストリートカルチャーに特化した総合ニュースメディアです。2013年9月より運営を開始し、世界中のサーフィン、ダンス、ウェイクボード、スケートボード、スノーボード、クライミング、パルクール、フリースタイルなどストリート・アクションスポーツを中心としたアスリート・プロダクト・イベント・カルチャー情報を提供しています。
アクションスポーツ・ストリートカルチャーの映像コンテンツやニュースを通して、ストリート・アクションスポーツの魅力を沢山の人へ伝えていきます。
●今日 ○イベント開催日
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culture430/Fourthirty 30周年記念連載:第2弾 〜Fourthirty創業初期の様々な転機とアイデンティティの葛藤〜2026.04.22日本国内のストリートカルチャーシーンにおいて、BMXライダーを中心に深く愛され続けているアパレルブランド「430/Fourthirty(フォーサーティー)」が、今年でブランド設立30周年を迎える。 1996年に5名のプロBMXライダーによって発足し、その一員である上原洋を中心に歩みを進めてきた同ブランド。彼らが長年にわたるBMXとの関わりや数々の旅を通じて得た経験、そして機能性を追求した素材選びや時代ごとのテーマを反映したグラフィックなど、周囲のアーティストたちと共創したエッセンスがアパレルに落とし込まれている。現在ではBMXライダーをはじめ、ストリートカルチャーを生きる多くの人々に寄り添うデザインを展開し、シーンから絶大な支持を集めるブランドだ。 そして5月2日(土)にFourthirtyの創業30周年を記念するイベント「みどりな夜 2026 - 430 30th ANNIVERSARY」が開催される。この度、FINEPLAYでは当イベントに先駆けて、Fourthirty創立メンバーである上原洋氏に行ったインタビューを全4回の連載企画としてお届けする。 第1弾ではFourthirtyの創業秘話というテーマの下、上原氏のBMXとの出会いや「Fourthirty」というブランド名の由来、立ち上げの裏側に迫った。第1弾をまだ読んでない方は是非本記事の前に一読してほしい。今回の第2弾もFINEPLAY財満栄治の進行の下、「Fourthirty」というブランド立ち上げ初期の出来事から、次々と起こる転機の中で上原自身が経験したアイデンティティへの葛藤などを語ってもらった。 初めての「織りネームタグ」と展示会出店が生んだアパレルブランドとしての自覚 財満:Fourthirtyを立ち上げて今年で30年という長い期間がありましたが、アパレルブランドとして最初の転機と感じたことはありますか? 上原:最初は自分が働いていたプログラムという洋服屋でFourthirtyブランドとして制作したTシャツを売らせてもらいましたが、自分たちのストリートカルチャーを通じて感じてきたモノの魅力を、BMXを全くやっていない一般のお客さんに対して洋服の良さやストーリーを伝えて、アパレルを売るということの難しさを一番痛感しました。ただ、BMXと直接関係がない仲間やその先で繋がったお客さんがTシャツを買ってくれた時に、自分の作ったものが初めて金銭化し、今までは「ただのBMXチーム」だったところから一つのレーベルやブランドになったのだと強く実感しました。またアパレル自体のデザインもプリントだけでなく、織りネームのタグを作ってTシャツに付け始めた時も、モノづくりにおいて自分たちの意識が変わったタイミングでした。 財満:岡山から上京してきてからの活動はどうでしたか? 上原:岡山から東京へ出てくると、周りのスケーターやBMXライダーたちのレベルが一気に上がって、雑誌で見るようなトップクラスの人たちばかりで、映像や洋服を作って生計を立てている人たちと出会うようになっていきました。そういった方々の事務所にも行かせてもらう中で、ストリートカルチャーが生業として成り立つことを肌で感じました。それがきっかけで自分たちでもTシャツだけでなくアパレル全般を作ろうというアイデアも生まれました。それから、当時「STAY UP LATE」という1990〜2000年代を代表するストリートブランドの先輩に可愛がっていただき、服作りの方法を間近で見て学ばせてもらいました。その中である時、先輩が「Tシャツ作ってるんだったら、次の展示会でうちの1ブース使って出店してみる?」と声をかけてもらいました。その展示会を機にTシャツだけでなく、初めて春物のジップアップジャケットや薄手のデニムパンツと財布、そして形から作った帽子などを作り出店しました。今まではお店でお客さんを待つスタイルでしたが、展示会を通して実際にバイヤーさんやお客さんに営業してお店に来てもらう経験をしたことは大きな転機でした。それが確か2000年頃のことだったと思います。初めてTシャツを作ったのが1996年だったので、それまで4年ほど経っていますが、その4年間はBMXプロライダーとしてとにかく自転車に乗ることを意識して頑張っていた期間でもありました。ただその中で自分の強みやオリジナリティを発揮できるのが、他にも上手いライダーがたくさんいる中で世界チャンピオンを目指すことではなく、BMXシーンにまだ根付いていないファッション文化を広めることだと分かったのでシフトチェンジした感じでした。 プロBMXライダー活動当時の写真 財満:当時東京に来てよく関わっていた人にはどんな方がいましたか?上原:よくお世話になっていたブランドに「HOMLESS」と「FRESHJIVE」っていうこの2つがあったのですが、そこに今みんなが知っている人で言えば、スケートボードメディア「VHS MAGAZINE」の江口勲二郎さんっていうスケーターがいたんですが、僕より少し年上でものすごい頭がいい人でありながら、リアルストリートカルチャーをすごい分かっている人だったので話していて面白かったですし今でも仲良くさせてもらっています。あと「CHALLENGER」というブランドの代表をしている田口悟さんも当時同じチームにいて特にスケーターの人が仲良かったです。あとその「HOMLESS」っていうブランドは他にはスノーボーダーやレゲエアーティストなどを幅広くサポートしていたこともあり、クラブイベントを開催しては色々な人を紹介してくれました。そこで雑誌関係の人ともたくさん繋がりました。当時は雑誌を作っている人がその時代の情報を作っていたこともあって、彼らとよく一緒に動いていたことがFourthirtyとしても展示会の情報や音楽、ファッションを周りより早くキャッチできた理由かもしれません。 法人化を経て直面した目標の喪失と、香港での新たな出会い 独立した当初の写真 財満: その状態からどのように独立して、法人化へと進んでいったのでしょうか? 上原: 展示会を初めてやらせていただいた約2年後の2003年頃に独立を決めました。服作りを一から教えてくれた先輩のことが大好きで尊敬していましたし、その先輩から「うちを法人化するから1ブランドとして一緒に入ってやっていかないか?」というお誘いもあったのですが、心のどこかで「自分たちでやりたい」という強い気持ちがありました。そのため先輩からのお誘いには「自分でやります!」とお断りして、 新宿の中央公園近くにオフィスを構え、まずは自分たちのお店の開店資金である300万円を貯めるため、独立して最初の1年間はメンバー全員でギリギリの生活をしながら必死に頑張りました。そして無事に資金が貯まり、法人化できたのが24歳頃のことです。 財満: 法人化という目標を達成したわけですね。 上原: そうなんです。ただBMXのプロライダーになり、自分たちのブランドを作り、独立して法人化するという子どもの頃からの夢をすべてクリアしてしまったことで、「次は何を目標にして走ればいいのか」が分からなくなってしまったんです。 そんなタイミングで、FourthirtyメンバーでBMXのデモンストレーションを香港で行う機会がありました。そこで現地の洋服屋をやっているプロスケーターのフランキーと出会い、彼を通じて香港での仕事が増えていって、その中で香港という国のガツガツしたエネルギーやスピード感に触れたんです。 当時の東京ではスポンサーを受けて生活しているライダーも多く、その生活の仕方に僕自身未来を感じていなかったこともあり、もっとワクワクできる環境を求め、かつ上原洋というキャラクターを確立するために、日本人ではないですが同世代たちがガツガツ頑張っている香港へ約2年半渡ることに決めました。Skypeなどの技術革新の登場で、遠隔でも香港からでも海外の人たちとコミュニケーションが取れるようになっていたことも香港へ挑戦する大きな後押しになっていましたね。 「BMXの〜」という形容詞への葛藤を乗り越え、心に決めたのはシーンへの恩返し 香港での活動の写真 財満: 香港ではどのような活動をしていたのですか? 上原: エリック・コットさんという、現地のファッションのトレンドセッターであり、俳優の方と繋がり息が合ったので、彼のオフィスに毎日通って作業をして様々なプロジェクトを行いました。その中の「4Aプロジェクト」では、毎週発売されるファッション誌で隔週2ページのコラムを連載したりもしていました。ただ、エリックと一緒に活動する中で著名人も含めて色々な人を紹介してもらう時には、必ず「日本のBMXバカのヒロシ」といった感じで「BMXの〜」という形容詞をつけられて紹介されることに葛藤を感じていました。 4Aプロジェクトの写真 財満: どうして葛藤を感じ始めたのでしょうか? 上原: 僕たちのFourthirtyはBMXライダーが立ち上げたブランドではあったものの、BMXライダーに向けた服ではなく、ライフスタイルとしてのストリートブランドを作っていきたいという思いが強かったんです。また、僕自身は当時、昔に比べてBMXに乗れていなかったのに対し、毎日血を流しながら死ぬほど練習している現役のライダーたちに対して「まるで自分がBMXプロライダーのように形容されるのは彼らに対してどうなんだろう?」という思いがありました。そういった背景もあり、エリックやその他の「BMXの〜」という形容詞をつけて紹介してくれる人たちが、紹介先に僕の唯一無二感を与えるためにポジティブな意味で言ってくれていたことに当時の僕は気づけなかったんですよね。 財満: なるほど。そこからどのように意識が変わっていったのですか? 上原: 何をしても「BMXの〜」という肩書きがどうしても付いてくるのなら、その肩書きを付けられた時に恥ずかしくないよう、BMXシーンやカルチャー自体をカッコよくするために自分が貢献すべきだと気づいたんです。 そこから、大会の審査員を務めたり、G-SHOCKと一緒に「REAL TOUGHNESS」というイベントを2010年頃からオーガナイズしたりして、シーンの裏側から貢献する道を選びました。そういう形で自分がBMXに対して真摯に向き合い、できることを通じてしっかりやろうと決意して日本に帰国したんです。その流れで東京オリンピックの組織委員会での活動やUCIの世界戦の審査員をはじめたんです。 UCI世界選手権大会の審査員の写真 次回の第3弾では、日本へ帰国後に立ち上げた原宿のヘッドショップ「DECADE TOKYO」の設立秘話や、現在のFourthirtyについてさらに深く伺っていきます。 今回のインタビューはPodcast「SESSIONS Presented by FINEPLAY」でも! FINEPLAYがスタートした新音声メディア「SESSIONS Presented by FINEPLAY」にて今回のインタビューもお聴きできます。番組はこちら>>(外部サイトへ遷移します) 上原洋プロフィール 元プロBMXライダー。現在はアパレルを中心に、BMX、関連商品を販売する430 co.,Ltd の代表。2021年の東京オリンピック組織委員会でBMXの技術マネージャーを担当。またUCI BMX FREESTYLE 国際大会審査員も務める。2010年に原宿キャットストリートに430のヘッドショップであるDECADE TOKYOをオープンさせ、2024年に同じキャットストリートにDECADE TOKYOがリニューアルオープンした。 「みどりな夜 2026 - 430 30th ANNIVERSARY」 イベント概要 430 30th ANNIVERSARY “みどりな夜 2026”今回は430の30周年も重なる、特別な一夜。 クラブエイジアのフロアをフルに使い、BMX、LIVE、DJが交差するお祭り的な一夜。“みどりな夜”名物、BMXフラットランドのジャムセッションも開催。クラブという異空間で繰り広げられるライディングは、ここでしか見れない景色です。今回集まってくれたのは、これまで430と共にシーンを作ってきた仲間たち。長年ステージを共にしてきた太華くん、岡山の繋がりも深いレゲエアーティストJ-REXXX、ミクスチャーバンドのGAS MARIA、大分からはケンチンミン、金沢からはVUE DU MONDE、そしてさすがのパフォーマンスで魅せるK&K。それぞれのスタイルで、この夜を彩ってくれます。 DJ陣も特別なラインナップ。長年共にイベントを作ってきたDJ BAKU、高校時代からの仲間であるホームメイド家族のDJ U-ICHI、みどりな夜を支え続けてきたDJ DAI-5、DJ TOYODA。岡山からはDJ ZEEK、名古屋からはコースケ。現場を共にしてきたDJ PONY。田中光太郎の平成チューンもあります。そして新たな出会いから参加するDJ TIMESLIP GOなど、それぞれのバックグラウンドが混ざり合う一夜になります。 さらにスペシャルゲストも控えていますが、こちらは当日までのお楽しみ。30周年を祝うために集まってくれた、本当に大切な仲間たちです。このメンバーで迎えられることに感謝。当日が楽しみです。— Text by Hiroshi Uehara/上原洋 DATE:5.2 (Sat) 23:00 STARTTICKET:ADV ¥3000 / DOOR ¥4000(430枚に達すると終了します )**チケットはDECADE TOKYO & ONLINEにて販売中です。記事最下部のリンクより購入できます。VENUE:CLUB ASIA(渋谷)東京都渋谷区円山町1-8STARRING:430 BMX LIVE SESSIONJ-REXXX,太華,GAS MARIA,KEN TIN MIN,VUE DU MONDE,K&K,DJ BAKU,DJ U-ICHI.,DJ DAI-5,DJ TOYODA,DJ TIME SLIPPER GO,DJ ZEEKDJ PONY,DJ KOTARO TANAKA, YASSAN…and more
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danceメジャーとアングラ|両面で共存する理由。ダンサーTATSUKI 独占インタビュー2026.04.16日本最大規模のダンスバトルイベント「マイナビDANCEALIVE」のプロデューサーに25歳という異例の若さで抜擢され、現在就任3年目を迎えたダンサーTATSUKI。5歳の時にスイミングスクールの待ち時間でダンスと出会って以降、キッズ時代から「Beat Soldier」のメンバーとして頭角を現した彼は、現在も現役プレイヤーとして第一線で活躍をしながら同時にイベントの裏方も務めるなど、メジャーとアンダーグラウンドの垣根を越えて挑戦をし続けている。今回はその多彩な顔を持ち、現役ダンサーとしてハイブリッドな活動を自ら体現するTATSUKIに、裏方と表舞台を行き来する柔軟性と、現在進行形で進めるマイナビDANCEALIVEの改革、そしてそれらの幅広い活動をなぜ行っているのかを迫る。ダンスシーンの次世代を担うひとりであるTATSUKIが見据える未来について、話を訊いた。 5歳の出会いと、運に導かれたキッズ時代 ➖ まず最初にダンスの経歴について教えてください。 僕は埼玉出身で、地元のスポーツクラブのスイミングに5歳の時に通っていました。親が送り迎えをしてくれていたのですが、迎えに来るまでに1時間くらい時間が空いていて、その間、毎回ダンスレッスンをしている場所にいて、見ていたらしいんですよ。それで親から「興味あるの?」と聞かれて、「やりたい!」と言い始めたみたいです。5歳の時なので、自分ではもう記憶がないんです。 ➖ そこからどのようにして本格的なストリートダンスの道へと進んでいったのでしょうか? 中学生の頃からYASSさんのレッスンを受け始めました。当時通っていたダンススタジオは、僕以外は先生も含めて女性ばかりで、男性インストラクターから学ぶ機会がほとんどありませんでした。そんな中、先生が「YASSくんのところに行ってみたら」と背中を押してくれたんです。キッズの頃、NHKの『みんなのうた』に出演するため全国から集まった子どもたちの中に、僕とKAI→がいました。KAI→とは当時から繋がりがあり、彼がLEOたちと活動していたこともあって、YASSさんのことも以前から知っていました。だから、僕にとってYASSさんはどこか身近な存在だったんです。 周りのキッズダンサーたちは小学校低学年くらいからバトルにガンガン出て活躍していたんですが、僕は結構ビビリでその当時はバトルが怖かったんですよ。でも、中学生になった頃からバトルに挑戦し始めてハマっていって、そのタイミングでLEOたちと仲良くなり彼らと「Beat Soldier」というチームを組みチームとして結構活動していました。 ©︎anomaly inc 25歳で大抜擢|マイナビDANCEALIVEプロデューサーへの挑戦 ➖ 現在はショーやジャッジといったプレイヤーとしての活動に加え、D.LEAGUEではList::Xのリーダーを務め、さらにマイナビDANCEALIVEのプロデューサーもされていますが経緯を教えていただけますか? 大きな転機は「コロナ禍」でした。それまでは、とにかく目先の目標をこなす生活を送っていたのですが、プツンと仕事が途絶えて暇になりました。生活とか、今後について考えざる得ない時間が突然できたんですよね。それまでは、平日のレッスンや土日のワークショップくらいしか仕事がなくて日中は暇でした。 「この時間に何かできないかな」と思っていた時に、アライブを運営しているアノマリーに「何か自分が手伝えることはないですか?」と連絡してアルバイトとして働かせてもらうことになりました。運営を手伝う中で、会社の動きやイベント運営の裏側が見えてきて、運営陣に対して「こういうところをもっとこうしたらダンサーから信用されますよ」「ダンサーたちのためにこれはやらない方がいい」と、ガッツリ意見を伝えていました。 運営陣の方々とは昔から知り合いでしたし、これまでお世話になってきた側面もあるので関係値があるが故に、ストレートに意見を言えましたし彼らも訊いてくれました。僕もアライブにはバトラーとして挑戦してきたし、ずっとプレイヤー目線で見ていたので、そういう現場のリアルな意見を言えたし説得力もあったんだと思うんですよね。 ©︎anomaly inc ➖ アルバイトながら前プロデューサーのカリスマカンタローさんたちと意見交換を重ねていたということですね。 そうですね。たぶん、そういうのを見て「こいつに任せたい」と判断してもらえたんだと思います。カンタローさんからは、自分がアライブを始めた若い頃のカウンターカルチャーの尖った感覚みたいなものを、世代交代してカタチにして欲しいということを言われました。事業を継承していくタイミングはずっと考えていたみたいです。 ➖ 日本最大級のイベントを突然任されることになって、プレッシャーはありませんでしたか? 最初はさすがに持ち帰って考えました。それまでイベント主催の経験もゼロでしたから。でも、僕は昔から「運に生かされている」という感覚があるんです。最初の先生との出会いも、YASSさんとの出会いも、Beat Soldierに入れたのも、運が先行して頑張ってこれた。だから、こんな話が来るなんて人生で二度とないし「どうせいつか死ぬんだから、やれることは全部やりたい」と思って、1日考えて引き受ける決意をしました。 ➖ 初年度から手探りでイベントを動かしていくのは大変だったのではないでしょうか? 正直、初年度はわけがわからないまま終わりました。扱ったことのない金額の予算を動かしたり、今まで見ているだけだった先輩方とやり取りするようになったり、全然違う世界に飛び込んだ感覚でした。初年度のアライブのファイナルでは、時間が想定より1時間も押してしまったんです。進行が想像以上にうまくいかず結構ショックで悔しい出来事でした。 僕は基本的に落ち込んでもすぐ回復するタイプの人間なんですが、さすがに1ヶ月くらい引きずって「もうできないかも」と挫折しかけましたが、主催であるアノマリーの人たちが上手く僕をコントロールしてサポートしてくれました。ダンサーの先輩たちも「お前がやってるなら協力するよ」と言ってくれて、それはめちゃくちゃ励みになりました。 ©︎anomaly inc メジャーとアングラの共存を体現する ➖ そんな中、D.LEAGUEにもList::Xのリーダーとして参画されたと思うのですが、どのような経緯だったのでしょうか? それも「求められたから」というのが一番の理由です。最初は顔を出さずにList::Xは裏方で入っていました。でも、SPダンサーとして単発で出演したタイミングで、List::Xの会社の方から「どうしても入ってほしい」と熱烈にお声がけいただき、カンタローさんからも背中を押してもらい、表に出ることを決めました。「自分にできることがあるなら、やれるうちにやります」というスタンスで、実務が追いつくかとか現実的なことはあまり深く考えずにガッツリ関わることを選びました。 ➖ D.LEAGUEのリーダーとマイナビDANCEALIVEのプロデューサーとの兼任は非常に過酷な印象がありますが、どのようなマインドで過ごされているのでしょうか? 僕は結構楽観主義なので、基本的にはハッピーな感じでやっています。D.LEAGUEは審査基準がストリートのバトルとは違いますが、メンバーには「負けても世に出して恥ずかしくないダンスをしよう。意味のあるものにしよう。」と伝えています。それができていれば、負けても落ち込みすぎることはないと思っています。もちろん、勝つことが前提にある中での話なんですけどね。 ➖ アングラとメジャーを行き来することに対して意識することはありますか? ある人にとっては、メジャーな活動を「ダサい」と言う風潮がまだあるかなと感じます。でも、僕は「じゃあ、僕がメジャー的な活動をしていてもダサいですか?」と、胸を張って言えるように体現していきたいんです。そのためにも両面にしっかり抜かりなく向き合っていきたいと思って動いています。どんなスケジュールでも今までと変わらず、出たいと思うバトルに出て優勝したり、またD.LEAGUEに出れば選手としてしっかり立ち振る舞う。それが今の若さだからできることだと思っています。だからこそ、今でもアングラストリートの現場には必ず行くし、結果を出すために僕自身もダンスを追求し続ける。僕がハイブリッドに活動して見せることで、下の世代の子たちが「こういう可能性もあるんだ」と希望を持てるようになれば、シーンはもっと可能性が拡がって選択肢が増えるし純粋にそれでダンサーという職業が今よりももっと成立するようになると思っています。 ➖ そのバランスは非常に難しいと思うのですが、なぜ両立ができるのでしょうか? 結局、気の持ちようだと思っています。アングラのこだわりはすごく分かるけど、それをキープしたままお金を稼ぎに行くことはできる。もっと色んなコミュニティに顔を出してシェアすればいい。僕は今でもメジャーアーティストの方々にレッスンをさせていただくなど交流があります。一方で、バトルシーンにも自分がバトラーとしても挑戦するし、アライブのような規模のバトルイベントの主催もする。僕みたいに全部やれというわけではなく「僕がここまでやってるんだから、みんなも少し考え方を変えて行動してみたらもっと生きやすくなるよ」と気付いて欲しいんです。やってみなきゃ分からないことだらけですからね。 パイを広げ、ダンサーの森を豊かにする ➖ マイナビDANCEALIVEやD.LEAGUEを通して、TATSUKIさんが目指すビジョンや原動力を教えてください。 根本にあるのは、今までお世話になった先輩や仲間への「恩返し」です。今はいろんなダンスの形があって選択肢が増えましたが、全員が同じ方向を向くタイミングがない気がしています。みんなが狭い森の中で餌を探して奪い合っているような状態なんですよね。僕は今まで芸能事務所にいたこともあるし、D.LEAGUEもアングラのバトルも経験してきたからこそ、「ダンスが好きという共通認識の人たちなのだから一旦みんなで合流して、ダンスシーンという森をでかくしよう」と伝えていきたいんです。 森を大きくしてしまえば、あとは自由に生きられるじゃないですか。不自由なくダンスができたり、自分の個性や趣味嗜好を心置きなく出せる場所やパーティー・イベントを作れる作業が、僕なりの恩返しだと思っています。意外と僕は自己犠牲になっても「人が喜んでくれること」が嬉しいタイプなんだと、アライブの運営を経験する中で気が付きました。自分が世界で羽ばたくダンサーになるよりも、周りの人が不自由なくダンスを楽しめる環境を作ることの方が「自分の幸せなのかも」と、思ったりしています。 ➖ 昔からそのようなスタンスだったのですか? いえ、昔は「バトルで優勝したい」といった目先の目標しかなかったです。でもコロナ禍で考える時間ができて、とにかくこの先も楽しくダンスをして生きていきたいと思うようになりました。そのタイミングでアライブの仕事が入ってきて、プレッシャーの中で誰かの為に尽くす喜びに気付かされたんです。自分でゴリゴリ引っ張る勇気はないですが、求められたら全力で応えるタイプなんでしょうね。ちなみに僕は完全に無趣味で、ほぼダンスのことしか考えていません。最近やっとビート作りを始めましたが、これもいつまで続くかわからないという感じで(笑)。飽き性なのですが、ダンスだけはずっと続けられているので、これありきで今後の人生も考えていきたいと思っています。 ©︎anomaly inc マイナビDANCEALIVE 2026 FINALの見どころ ➖ 今期は様々な改革を行っていると伺いましたが、具体的にどのようなポイントがありますか? まず、バトルの部門に「POPPING」を増やしたことです。これは僕が個人的にPOPPINGのバトルを見るのが好きだというのもあります。これまではALL STYLES部門でPOPPINGのバトルを見ることが出来ましたが、ALL STYLESは様々なダンスのジャンルを踊る人が入り乱れるのでそれが楽しさでもあり、同時に難しさでもあるかなと感じていました。POPPINGはバトラーの数も多いですし、わかりやすく盛り上がるジャンルでもあるので、別枠を作りたいという想いがありました。ダンサーたちからも「ポップサイドを作ってほしい」とずっと言われていたので、その声に応えました。賞金100万円が出るPOPPINGのバトルは珍しいと思うので、新しい名誉の場になればと思っています。 ➖ セネガル代表とガーナ代表のバトルも話題になっていますね。 はい、今期からアライブワールドの取り組みとして、セネガル対ガーナの代表バトルを組みました。アフリカンならではの本場のエネルギーが見られると思います。ダンサー陣の中でも「セネガルやばい!」と話題がよく上がっていて、あの異国の面白さと爆発力は、うちの会社くらいしかわざわざ呼んで実現できない企画だと思いますね(笑)。 ➖ さらに、今回は初めての試みで当日予選があると伺いました。 そうですね。今回、朝一番のアンダーグラウンドステージで「当日予選サイファー」を初開催することになりました。今まで、年間を通じて全国で行われる各予選の準優勝のダンサーたちに対して何も報われないのが心残りでした。なので、その実力者たちを集めてM-1の敗者復活戦みたいなテンションでサイファーをしてもらいたいなと。しかも、ジャッジはおらずダンサー同士が踊り合って、自分以外の誰かを指差して、一番票が多かった人がメインステージのトーナメントにシードとして加わるシステムを導入しました。 ➖ ジャッジなしでダンサー同士がファイナルに進む最後の1名を決めるとは激アツですね。 ヨーロッパのイベントなどではあるシステムなんですが、日本では珍しいと思います。アライブはどうしても形式張ってしまう部分があるので、生感やサプライズ感を出して、概念をぶっ壊したかったんです。恨みっこなしのバチバチのドラマが見られるはずですよ。 ➖ 最近のバトルシーン全体について、TATSUKIさんはどう見ていますか?キッズダンサーのレベルアップなども著しいと思うのですが。 環境は間違いなく良くなりましたし、ルールの公平性や進行のスムーズさも向上しました。ただ、今のキッズたちは大人顔負けのスキルを持っていて「下手な子がいない」くらい底上げされている反面「うますぎて引いちゃう」部分もあるんです。昔のキッズみたいに「何がなんでも勝ちたい!」という泥臭さや、子どもならではのあざとさみたいなものも、もっと踊りで表現して欲しいし見たいなとは思いますね。 ©︎anomaly inc 死ぬまでダンスと関わり続ける ➖ TATSUKIさん自身の今後の展望をお聞かせください。 とにかく、動けるうちはプレイヤーとして表の活動も大事にしていたいし、裏の活動も回せる状態をずっと保ちたいです。今後ビジネスとしてイベントをやっていくことになっても、ビジネスに100%振り切ることは絶対に無いですね。死ぬまでダンスと関わっていくことは確定しているので、どんな形であれ、ダンスシーンにいる人が「ダンスをやっていて良かった」と思えるように動きたいです。自分が幸せになることよりも、ダンスシーン全体が幸せになったらいいなと本気で思っています。 ➖ 最後に、読者やマイナビDANCEALIVEに興味がある方へメッセージをお願いします。 バトルイベントって初見の人にはハードルが高いと思われがちですが、アライブのファイナルは両国国技館で1対1で戦うという、お相撲さんのような分かりやすい構図です。ダンサーだけでなく、ダンスや音楽がちょっとでも好きな人にぜひ来てほしいです。今回は生配信もありますが、著作権の都合で「バトラーは完全に初耳のオリジナル楽曲で踊る」というルールになります。 バトルシーンにいる人たちからすれば、ネガティブに捉えていた部分もあると思うのですが、逆に言えば「初めて聞く音で、即興でこれだけ凄いバトルをしている」というダンサーの真のスキルを見てもらえるチャンスでもあります。バトル以外にも、1日中、4つのステージでキッズから大人まで様々なショーケースを見ることが出来ますし、フェスっぽい空気感を感じるだけでも絶対に楽しいので、ぜひ「ダンス好き」の皆さんに集まってほしいですね。あと、全国、いや世界 からもこれだけのトップレベルのダンサーを一同に見ることができる機会もなかなか無いと思うので、ぜひ自分の好きなダンサーを見つけていただきたいと思います。会場でお待ちしています! TATSUKI|プロフィール "Tatsuki"GRAYSOURCE / Bixbite / kophy / List::X5歳からダンスを始め、ダンスに没頭する日々を送る。現在は各地でのゲストショーや国内外のWSを行いながら活動している。2018 JusteDebout HIPHOP SIDE 日本予選 優勝2019 DANCE@LIVE HIPHOP SIDE 前日予選 優勝2025 WDC HIPHOP SIDE優勝2025 SELLOUT FINAL 優勝2026 SELLOUT FINAL準優勝などバトルシーンにおいても輝かしい成績を残す。また、2025年からD.LEAGUEのList::Xのリーダーとして参戦。アングラからメジャーまで幅広く活動する。2023年6月からは『DANCEALIVE』のプロデューサー兼オーガナイザーを引き継ぎ、ストリートダンスシーンの更なる成長と繁栄のために働きかけている。 マイナビDANCEALIVE 2026 FINAL|開催概要 【開催日】2026年4月19日(日)【会場】両国国技館(〒130-0015 東京都墨田区横網1丁目3番28号)【開催時間】OPEN 10:30 / START 11:30【主催】株式会社アノマリー【特別協賛】株式会社マイナビ 2005年に「DANCE@LIVE(ダンスアライブ)」として日本で誕生した、1on1形式の世界最大規模のストリートダンスバトルの決勝戦。ダンサーが1対1の対面でDJのかける音楽に合わせ、即興で1ムーヴずつ踊り合う。もちろん流れる曲はDJのみが知る。より多くのJUDGEの票を獲得した方が勝利するシンプルなルール。予選は北海道・東北・北陸・関東・中部・関西・九州・中国地方の全国8地区で開催、熾烈な戦いを勝ち進めた猛者達が集い、日本国技の殿堂「両国国技館」で優勝を競い合う。カテゴリーは6つ。HOUSE・BREAKING・HIPHOP・POPPING・ALL STYLESの「GENERAL」。中学生以下のオールスタイルズバトル「KIDS」。全カテゴリーのダンスバトル賞金総額は『510万円』。毎年ストリートダンス界の日本最強ヒーローを生み出し続けている。ダンスバトルの他、コレオグラファー/ダンススタジオ/大学生・社会人ダンスサークルによるショーケースなどがすべてのエリアで同時開催されるモンスターイベント。毎年10,000人以上の動員を記録、年に一度のストリートダンスのビッグフェスとして老若男女に親しまれ、ストリートダンス界の現状を象徴するイベントとなっている。
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culture430/Fourthirty 30周年記念連載:第1弾 〜Fourthirty代表 上原洋が語る創業秘話〜日本国内のストリートカルチャーシーンにおいて、BMXライダーを中心に深く愛され続けているアパレルブランド「430/Fourthirty(フォーサーティー)」が、今年でブランド設立30周年を迎える。 1996年に5名のプロBMXライダーによって発足し、その一員である上原洋を中心に歩みを進めてきた同ブランド。彼らが長年にわたるBMXとの関わりや数々の旅を通じて得た経験、そして機能性を追求した素材選びや時代ごとのテーマを反映したグラフィックなど、周囲のアーティストたちと共創したエッセンスがアパレルに落とし込まれている。現在はBMXライダーをはじめ、ストリートカルチャーを生きる多くの人々に寄り添うデザインを展開し、シーンから絶大な支持を集めるブランドとなっている。 そして5月2日(土)にFourthirtyの創業30周年を記念するイベント「みどりな夜 2026 - 430 30th ANNIVERSARY」が開催される。この度、FINEPLAYでは当イベントに先駆けて、Fourthirty創立メンバーである上原洋氏に行ったインタビューを全4回の連載企画としてお届けする。 第1弾となる今回はFINEPLAY財満栄治の進行の下、上原氏のBMXとの出会いや「Fourthirty」というブランド名の由来、創業メンバー集結の裏側など、立ち上げ当初の貴重なエピソードをざっくばらんに語ってもらった。 Fourthirty代表・上原洋が語る、ブランド誕生の裏側とBMXとの出会い 2003年香港:上原洋のライディング 財満:Fourthirtyの30周年、誠におめでとうございます。改めて30年前にFourthirtyを立ち上げるに至ったきっかけを聞かせてもらえますか? 上原:立ち上げ前の背景からお話しすると、当時のスケートボーダーやBMXライダーなら誰もが経験していると思いますが、30年前はBMXライダーの数が非常に少なく、私の地元である岡山でもほんの数名しかいませんでした。 今ではSNS等も普及し、遠方にいるライダーとも身近に繋がれる環境になりましたが、当時はSNSのようなツールもないですし、近場で競技をしている人も少なかったので、どこでどんな大会やイベントが開催されているのか全く情報が入ってこない状況だったんです。 BMXを始めて数年が経った頃、大阪で大会が行われているという情報を耳にしました。さらに地元の先輩を通じて大阪の岡村旭という同世代のライダーを紹介してもらっていたこともあり、高校3年生の夏休みにその大会へ出場したんです。その大会の帰り際、会場で出会った神戸の小谷明生(通称:アキ)というライダーから「帰りの方向一緒だから車乗って帰る?」と声をかけてもらいました。 当時の僕は大阪や神戸の地理も全然分からなかったのですが、地図で見ると神戸は岡山寄りでしたし行きはバスだったこともあり、「一緒に乗ってきなよ!」と誘われたので同乗させてもらうことになりました。アキのBMXのスキルは自分と同じくらいのレベルでしたが、神戸出身ということもあってか服装を含めてスタイルが洗練されていてオシャレだったんです。 一方で、僕は昔から洋服が大好きで、岡山でも洋服屋で働いていたため、彼に出会って「神戸のライダーはなんてオシャレなんだ!」と強く惹かれました。それがきっかけで仲良くなり、一緒に車で帰ったんですよね。 財満:なるほど。 上原:その後、翌年の4月末に広島で大会が開催されるという話を聞きました。でも出場するにはエントリーシートをFAXで出さなきゃいけなかったんです(笑) 財満:当時はFAXでの申し込みが主流だったんですね。 上原:はい。そのエントリーシートの中には名前や住所を記入する欄の後に、「スポンサー」という項目がありました。当時の僕は何のことかよく分かっていなかったので、アキや神戸のライダーたちに聞くと「なんか上手いやつはここに書くらしいよ」と。(笑) 財満:当時はまだ、上原さんも神戸のライダー仲間もスポンサーの意味もあまり分かってなかったんですね(笑) 上原:はい。当時「FINE」という雑誌があり、巻末にサーファーやプロライダーが紹介されているページがあったのですが、そこにスポンサーとして「ムラサキスポーツ」とか「DCシューズ」といったブランド名が書いてあるのを目にしました。それから「上手いやつはエントリーシートのスポンサー欄に何か書けるらしい」という話になり純粋に「かっこいいな」と憧れを抱いたんです。当時はもちろん僕たちにスポンサーなどついていませんでしたが、でも「何か書きたいよね」っていう話で盛り上がりました。FAXを送る日がちょうど4月30日だったため、小谷明生と一緒に仮のチーム名として「Team 430」とスポンサー欄に記入してエントリーしました。 財満:当時はまだ430(フォーサーティー)という呼び方ではなかったんですか? 上原:違いますね。確か「ヨンサンゼロ」と読んでいたと思います。 エントリーシートの「スポンサー欄」から生まれた「チーム430」 430創業の立役者となった上原洋と岡村旭 上原:広島の大会当日、少し前に知り合っていて、後々共にFourthirtyを創業するメンバーになる田中光太郎も出場しに来ていて、そこで彼に神戸の仲間を紹介し、エントリーシートの話をしたんです。光太郎は当時から圧倒的に上手く、すでにスポンサーのようなものもついていたのですが、「実は俺たち、スポンサー欄にこう書いたんだよね」と伝えると、「マジ?それかっこいいじゃん。俺も書きたい」と賛同し、彼も「Team 430」と記入して大会に出場しました。すると、大会MCが「東京から来た田中光太郎、スポンサーはフォーサーティー!」と読み上げたんですよ。その後の僕たちも同じようにチーム名を「フォーサーティー」と読み上げてくれて。その「フォーサーティー」という響きがとてもかっこよかったので、帰りがけに「俺たちのチーム名の、あの『フォーサーティー』って響きかっこよかったよね。そっちにしよう」と話して意見が一致し、正式な呼び名が「フォーサーティー」になりました。これが後のFourthirty創業の最初のきっかけになります。 オーストラリア留学で受けた「BMX」の衝撃 財満:少し話を遡りますが、上原さんがBMXを始めたきっかけは何だったのでしょうか? 上原:高校1年生の時にスケートボードをやりたくて、最初は同じ学年でスケートボードをやっている友達と一緒に、岡山市内の中心部にある「汽車公園」と呼ばれるストリートスポットでちょっとやらせてもらっていました。また僕が通っていた高校には、1年生の夏休みにオーストラリアへの交換留学できるプログラムがあり、スケートボードをやりたいと思っていた僕は、中学生の時からそこを目指して進学したんです。当時、「オーストラリアだったら半額ぐらいでスケートボードが買える」という噂も聞いていましたし、留学先がベルズビーチという「クイックシルバー」の本店がある町で、ホストファミリーにも同じぐらいの年の子がいたこともあり、「スケートボードやりたいんだ。」と伝えると「いいじゃん、俺もちょっと滑れるよ」と言ってクイックシルバーの本店の横にあるミニランプへ連れていってくれたんです。たまたまホストファミリーは移動手段としてBMXを2台持っていたので、僕たちは2人でスケートボードを抱えながらBMXで向かいました。そこで現地に着くやいなや、彼がBMXでミニランプを乗り出したんです。それまで僕にとってのBMXは、ダートコースをジャンプしたりレースをしたりする競技というイメージでした。しかし、そこで初めてスケートボードやサーフィンのような「横乗りカルチャー」との接点があることを知り、興味を持ち始めたのが最初のきっかけです。僕自身、未開拓の新しい場所へ行くのが好きな性格でしたが、夏休みを利用した留学だったため参加しやすかったのも大きかったです。単に夏休みを過ごすくらいなら、せっかくならオーストラリアへ行きたいという強い思いがありました。 財満:そうなんですね。当時の日本ではストリートカルチャーに触れられる環境は少なかったと思うのですが、地元の岡山では流行ってたのですか? 上原:私の高校は街の中心部にあったため、オシャレ好きな人はいたかもしれません。その後、スケートボーダーたちとどんどん繋がっていきましたが、彼らはやはり飛び抜けてオシャレでした。みんな自宅にターンテーブルを持っていましたし。 財満:当時はターンテーブルとかもすごい流行っていましたよね。 上原:そうですね。スケートボードをして、ターンテーブルを回し、決まったショップで洋服を買うようなおしゃれな人のテンプレートみたいなものはありましたね。僕はオーストラリアから帰国後、スケーターの友達に「BMXって知ってる?あれでスケートっぽく遊べるスタイルがあるんだよ」って話したところ「うちの近所のスーパーの駐車場でやってる先輩がいるよ」と教えられました。「岡山にそんな人いる?」と半信半疑で会いに行くと本当にいたんです。2つ年上の先輩だったのですが、『スラムダンク』の三井君のようなロン毛スタイルで、とにかくカッコよくてBMXも凄く上手でした。僕は昔から「周りの人がやっていないことをやりたい」という思いが強かったので、先輩から教わりながら半年ほどBMXを続けるうちに、「こっちの方が好きかもしれない」と感じて、近所の自転車屋さんで初めて自分のBMXを買いました。その先輩にも頻繁に会える環境ではなく、SNSもない時代でしたから、その頃から勝手に「先輩や大会で出会ったライバルたちは、今も絶対死ぬほど練習しているはずだ」って思い込んで、彼らを意識して猛練習していました。 財満:BMXを始めた当時から、岡山から各地に遠征していたんですね。 上原:はい。長期休みに入ると、大会で仲良くなった友人から「今度俺の地元に遊びに来いよ」と声をかけられるのですが、社交辞令だとは微塵も思わず、本当にBMXを担いで遊びに行っていました。遠征先ではローカルライダーたちと遊び、彼らが行きつけの洋服屋を巡ったり、色々なご飯を食べたりと、自転車をきっかけに様々な街を訪れるのが子どもの頃から大好きだったのだと思います。 Fourthirtyの創業は、10枚のTシャツから始まった 創業初期の430チームメンバーの写真 財満:アパレルとして一番最初のアイテムを作ったのはいつ頃でしたか? 上原:「Team 430」として活動を始めた頃、私はまだ洋服屋でアルバイトをしていました。その洋服屋をはじめ、たまたま周囲にTシャツ工場にツテがある人や、イラストレーターがいる恵まれた環境だったんです。また、働いていたその洋服屋が販売に対して非常にシビアだったため、18〜19歳の頃にはすでに「こういうデザインが売れる」「こういうスタイリングがカッコいい」という肌感覚が身についていました。そこで最初のアイテムとして「カレッジロゴ」デザインのTシャツを作りました。そのTシャツをアルバイト先の洋服屋で販売させてもらったのですが、先輩がとても厳しい方だったので、しっかり卸値(6掛け)での取引になりました。当時は一度に10枚程度しか作れず、原価が1枚約2000円かかっていたのですが、それを「430」にちなんで4300円で店頭に並べていました。お店が買い取ってくれる価格は6割の約2500円になり、自分は2000円で作っていたので、「友人に1枚タダであげてしまったら、その原価を回収するために4枚売らなければならない」という商売の厳しさを実地で学びました。そこでの経験からモノを大切にすることや、正しい売り方を若いうちから学べたのは大きな財産です。「430(フォーサーティー)」という名前が誕生した広島の大会から帰宅後、すぐにTシャツを作り、初めて販売したのが19歳の時でした。 財満:当時のデザインは今のロゴと同じですか? 上原: 違いますね。元々は先輩が手がけていた「STAY UP LATE」というブランドの兄弟ブランドとして、先輩のオフィスの片隅を借りてスタートしました。その後、自身で法人として独立するタイミングで、現在ではカメラマンや映像作家として著名なケイタくんに、今の430ロゴをデザインしてもらいました。もう20年以上前の話になりますね。 財満: ちなみに創業メンバーはどのように固まっていったんでしょうか。 上原: 一番の始まりは、神戸の小谷明生(アキ)と「もし将来、自転車に乗れなくなったとしても、俺たちは仲間でいようぜ」と誓い合って「Team 430」を作ったところからです。ただ先ほどお話しした通り、このチームを作った話を田中光太郎にしたところ「やりたい」と彼が加わり、さらに現在沖縄にいるライダーの伊東高志を誘った際も「俺も入りたい」と賛同してくれました。また、私が高校時代に大阪へ訪ねて以来ずっと遊んでいた岡村旭にも声をかけました。ただ、高志や旭は当時から既にスター選手で、バイクやアパレルなど様々なスポンサーがついていたので、「自分たちのチームにスター選手を巻き込んでしまっていいのだろうか」という話になりました。でもアキが「仲が良いんだから、それでいいんじゃない?」と話してくれて、まずはこのメンバーを創業メンバーとして固めてブランドスタートを切りました。でもそれ以降もやはり仲間はどんどん増えていって、現在のNOBやTamaoのような弟分や下の世代も加わり、クルーとして「Fourthirty」は多岐のジャンルにわたって大きく活動していく形になっていきましたね。 430創業メンバーの写真 次回の第2弾では、30年間の中での印象的なエピソードなど、これまでの30年を振り返ります。 今回のインタビューはPodcast「SESSIONS Presented by FINEPLAY」でも! FINEPLAYがスタートした新音声メディア「SESSIONS Presented by FINEPLAY」にて今回のインタビューもお聴きできます。番組はこちら>>(外部サイトへ遷移します) 上原洋プロフィール 元プロBMXライダー。現在はアパレルを中心に、BMX、関連商品を販売する430 co.,Ltd の代表。2021年の東京オリンピック組織委員会でBMXの技術マネージャーを担当。またUCI BMX FREESTYLE 国際大会審査員も務める。2010年に原宿キャットストリートに430のヘッドショップであるDECADE TOKYOをオープンさせ、2024年に同じキャットストリートにDECADE TOKYOがリニューアルオープンした。 「みどりな夜 2026 - 430 30th ANNIVERSARY」 イベント概要 430 30th ANNIVERSARY “みどりな夜 2026”今回は430の30周年も重なる、特別な一夜。 クラブエイジアのフロアをフルに使い、BMX、LIVE、DJが交差するお祭り的な一夜。“みどりな夜”名物、BMXフラットランドのジャムセッションも開催。クラブという異空間で繰り広げられるライディングは、ここでしか見れない景色です。今回集まってくれたのは、これまで430と共にシーンを作ってきた仲間たち。長年ステージを共にしてきた太華くん、岡山の繋がりも深いレゲエアーティストJ-REXXX、ミクスチャーバンドのGAS MARIA、大分からはケンチンミン、金沢からはVUE DU MONDE、そしてさすがのパフォーマンスで魅せるK&K。それぞれのスタイルで、この夜を彩ってくれます。 DJ陣も特別なラインナップ。長年共にイベントを作ってきたDJ BAKU、高校時代からの仲間であるホームメイド家族のDJ U-ICHI、みどりな夜を支え続けてきたDJ DAI-5、DJ TOYODA。岡山からはDJ ZEEK、名古屋からはコースケ。現場を共にしてきたDJ PONY。田中光太郎の平成チューンもあります。そして新たな出会いから参加するDJ TIMESLIP GOなど、それぞれのバックグラウンドが混ざり合う一夜になります。 さらにスペシャルゲストも控えていますが、こちらは当日までのお楽しみ。30周年を祝うために集まってくれた、本当に大切な仲間たちです。このメンバーで迎えられることに感謝。当日が楽しみです。— Text by Hiroshi Uehara/上原洋 DATE:5.2 (Sat) 23:00 STARTTICKET:ADV ¥3000 / DOOR ¥4000(430枚に達すると終了します )**チケットはDECADE TOKYO & ONLINEにて販売中です。記事最下部のリンクより購入できます。VENUE:CLUB ASIA(渋谷)東京都渋谷区円山町1-8STARRING:430 BMX LIVE SESSIONJ-REXXX,太華,GAS MARIA,KEN TIN MIN,VUE DU MONDE,K&K,DJ BAKU,DJ U-ICHI.,DJ DAI-5,DJ TOYODA,DJ TIME SLIPPER GO,DJ ZEEKDJ PONY,DJ KOTARO TANAKA…and more
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surf“今”を戦う。鈴木仁の新たな挑戦2026.04.10「とにかく勝ちたい。とにかく結果を残したい」。その言葉に一点の迷いもない。 WSL CS(チャレンジャーシリーズ)出場、そして2028年ロス五輪という大きな目標を掲げ、ストイックに日々を突き進むプロサーファー、鈴木仁。そんな彼がコロナ禍で、新たな表現の場として見出したのが「コーヒー」の世界だった。現在は現役トッププロとして活動する傍ら、自らの手で豆を焙煎し、ブランドを運営する道を選んでいる。なぜ、選手生命の真っ只中である「今」なのか。それは、自分自身の表現で価値を届け、プロとして胸を張って活動を続けるためのポジティブな選択。スポンサーシップに頼り切るのではなく、自らの力で世界へ挑む基盤を築く――。そこには、一人のアスリートとしての確かな「自立」への意志があった。競技者としての凄まじい執念と、自ら道を切り拓く新たな挑戦。二つの道を並走させながら、未来のビジョンを見据える鈴木仁の真意を訊いた。 原点は「家族と遊んだ湘南の海」 ― まずは、サーフィンを始めたきっかけについて教えてください。 父の影響ですね。父がサーフィンをやっていて、休日に家族で海へ行って波打ち際で遊んでいたのが始まりでした。記憶にあるのは5〜6歳の頃で、本格的にサーフボードに立ってサーフィンを始めたのは7歳くらい。2歳上の姉(鈴木姫七プロ) と全く同じタイミングでした。 ― 大会にはいつ頃から出場していたのですか。 確か小学校4年生、9歳のときに初めて出場した支部予選です。その大会は自分を含めて出場者が3人しかいなかったのですが、結果は3位。NSA全日本選手権にも行けず、それがものすごく悔しくて。「来年は絶対に勝ちたい」と思いスイッチが入りました。当時はとにかくサーフィンが楽しくて、ずっとサーフィンしてたいという一心でしたね。そこからは自然な流れで、15歳の時にバリ島のクラマスでJPSAプロ公認を得て、16歳からプロとして活動を始めました。 NSA湘南西支部での1枚 (右から2番目) 「睡眠3時間」の現場仕事の経験がハングリー精神を育んだ ― サーフィンは遠征費などの負担も非常に大きいスポーツですが、仁さんもアルバイトなどの経験をされてきたのでしょうか。 高校生の頃は、地元の蕎麦屋さんで3年間ほど試合の合間を縫ってバイトをしていました。その後、自分の経験を活かしてコーチングも始めました、一番大きかったのは父の仕事を手伝ったことです。父は建設業を営んでいるのですが、18歳から20歳くらいの頃は、現場に出ながらサーフィンとトレーニングを両立させていました。 ― 建設現場での仕事とプロ活動の両立。相当ハードな日々だったのではないですか。 夏場、地元にすごく良い波が続いていた時期があったんです。その頃は朝3時か3時半に起きて、3時間くらい最高の波でサーフィンをして、その後、父の現場に出て仕事。夜8時くらいに帰宅して、それからストレッチやトレーニングをして、23時や24時に寝る……という生活を2〜3ヶ月ぶっ通しで続けました。 ― それほどまでに自分を追い込めたのは、どのような想いがあったんですか。 「勝ちたい」という気持ちはもちろんですが、単純にサーフィンが楽しかったんです。近くには加藤優典プロやサーフィン仲間がいて、彼らと海に入ることが純粋に幸せでした。同時に、周りの仲間たちが自分の人生を真剣に考え、プロから社会人としての歩み始める子もいたり、そういう姿を見て、「自分も中途半端ではいけない」と良い刺激をもらっていました。あとは、そこまで過酷な生活を頑張っている自分が「かっこいい」と思わないと、やっていられない部分もありましたね(笑)。 18歳での栄光と、突きつけられた現実 ― プロとして活動していく中で、ご自身の中でマインドが変わった大きなきっかけはありましたか。 World Surf League QS1500『MURASAKI SHONAN OPEN』優勝 プロになった当時は、やってきたことの積み重ねの先にプロがあって、正直そこまで深く考えられていませんでした。でも、一年一年キャリアを重ねるにつれて、「どうやってプロとして生活していこう」と考えた時に、やっぱり選手として結果を残していきたい、プロとして稼ぎたいという想いが強くなったんです。18歳の時にWorld Surf League QS1500『MURASAKI SHONAN OPEN』で初めてプロとして優勝することができました。その賞金などで世界(当時のQS)を回った時、資金の面でも、そして世界のサーフィンのレベルの高さでも、一気に現実を突きつけられました。 ― 世界の壁を、身をもって体感されたのですね。 当時は今の「CS(チャレンジャーシリーズ)」という仕組みもなくて、世界中を回ってランキング100位以内を目指し、そのトップ10がCTに上がれるという時代。実際に世界を回ってみて、「これは、自分一人だけの力では限界があるな」と痛感しました。一番はお金の問題でしたが、これは誰もが通る悩みかもしれません。だけど、どうしても辞めたくはなかった。分からないなりにも「どうにかして続けたい」と、必死にしがみついていた時期の一番の壁でした。 ― その苦境を、どのように乗り越えられたのでしょうか。 一度は迷った時期もありましたが、そこからサポートしてくださる方々との出会いがありました。現在サポートしていただいている宮本さんとのご縁で、BJBというチームで三輪紘也プロ、加藤翔平プロ、古川海夕プロたちと一緒にトレーニングができる環境が整ったり、諦めかけていた遠征にも行けるようになったり。そこで「もう一回本気で世界を目指したい」と思えたのが2年前のことです。それに加えて、田嶋鉄兵コーチのトレーニングを受けたことも大きかったですね。「こんなにもサーフィンが変わるんだ」という気づきがあり、自分はもっとやれるという自信が湧いてきました。その過程では、母の存在も大きかったです。ずっと心から応援してくれていたのは、本当に支えになりました。 ― プロサーファーとして活動していく上で、今はどのようなモチベーションで試合に臨まれていますか 今はとにかく、結果を残したい。とにかく「優勝したい」という想いが一番です。本当にそこに集中しています。去年も悔しい思いをしましたが、毎年毎年、1年ごとに成長できている実感があり、目標に手が届くイメージは明確に持てています。本当にそこだけですかね。 運命を変えた、一杯の「浅煎りコーヒー」 BILLABONG STORE 湘南店の前でイベントを開催 ― コーヒーという新たな挑戦に踏み出したきっかけを教えてください。 元々おばあちゃんがコーヒーが大好きで、小学生の頃から牛乳や砂糖を加えながら飲んでいました。そこから中学生くらいで興味を持って、ドリップセットを揃えたりしていました。本格的にハマったのは、コロナ禍で試合がなくなり時間ができた時、加藤優典プロが車で旅をしている時に千葉で会い「自分で焙煎やるの面白いよ」と手網での焙煎を教えてくれたんです。実際にやってみたら、簡単にできて、凄く面白くて。 ― そこで、どのような魅力を感じたのですか 当時は味の良し悪しもあまりわかっていなかったのですが、彼が淹れてくれた「浅煎り」のコーヒーを飲んだ時の衝撃です。「こんなに美味しい世界があるんだ!」と感動してしまって。そこから鍋や網を使って、自分でも焙煎する日々が始まりました。 BILLABONG STORE 湘南店の前でイベントを開催 現役の今、ブランドを立ち上げた理由 ― 好きを形にするだけでなく、あえて「ブランド」という責任ある道を選ばれたきっかけを教えてください。 サーフィンだけでなく、自分自身の力で幅広く活動していきたいと考えていた時に真っ先に浮かんだのがコーヒーでした。ただ、対価をいただく以上はしっかりと責任を持って取り組みたいという想いが強くて。そんな時『QS3000 IBK宮崎プロ・WSLプロジュニア Presented by RASH』と福島の『Kitaizumi Surf Festival』で優勝することができ、遠征費とは別に新しい挑戦に充てられる資金ができたんです。周りの方々からも「成功しても失敗しても、若いうちにやりたいことは全部やっておけ」と背中を押してもらえました。資金的な目処が立ち「今やるしかない」と思ったタイミングで、サーフィンの繋がりを通じて浜松で一緒に動いてくれるパートナーとの出会いもあり、勢いで焙煎機の導入を決めました。 KITAIZUMI SURF FESTIVAL優勝 ― 「引退後」ではなく、「現役」のアスリートとしてブランドを立ち上げたのには、どのような意図があるのでしょうか。 「引退してから何かを始めても遅い」と感じていたからです。若いうちに経験しておくことは、たとえ失敗だったとしても絶対に将来の糧になると思うので。あとは、今の自分にできる「自立」の形だと思ったからです。結果で恩返しすることが前提ですが、スポンサーの方にただ支援をお願いするだけでなく、自分たちが自信を持って作った美味しいコーヒーを届け、その売り上げを遠征費に充てる。そういった新たな選択肢を自ら作ることで、よりプロサーファーとして胸を張って活動できると考えました。 ― ビジネスを経験することで、サーフィンに対する向き合い方にも変化はありましたか。 大きく変わりましたね。時間がある時は営業活動にも行っているのですが、全く違う世界で経営されている方々の情熱に触れることで、「自分もサーフィンをもっと計画的に、熱量を持って取り組まなければ」と刺激をもらっています。また、人との関わり方や礼儀も学びましたし、すべてがサーフィンに活かされていると感じます。 2028年ロス五輪、そしてその先のビジョン ― 今後の目標を教えてください。 まずは2年連続で届かなかったCSへの復帰。その先にあるのはCT、さらに2028年のロス五輪。ここは揺るぎない目標です。コーヒーとしては、いつか自分のカフェ店舗を持ちたいです。千葉や地元の小田原、浜松など、自分を知ってくれている人がいる場所で、サーフィンを愛する人もコーヒーが好きな人も、誰もがリラックスできる空間を作りたい。それが今の大きなモチベーションです。 WSL QS3000 IBK宮崎プロ優勝 ― 将来やキャリアに悩む若い選手たちへ、メッセージをいただけますか。 100人いれば100通りの意見があります。でも、最終的に大切なのは「自分がやりたいこと」を選択し、後悔がないように中途半端にならずにやり切ることだと思います。結果を恐れず、まずは動くこと。そして、楽しむことを忘れずに挑戦してほしいです。 プロフィール 鈴木 仁 2001年生まれ、神奈川県小田原市出身。 7歳で本格的にサーフィンを始め、15歳でプロ公認を取得。18歳となった2019年、WSL QS1500『MURASAKI SHONAN OPEN』にてプロ初優勝を飾る。現在もトッププロサーファーとして国内外のツアーを転戦しながら、自身のコーヒーブランド『Ocean Lux Coffee』を設立。ブランドオーナーとして、競技者としての勝利とアスリートとしての自立を追求し続けている。 【Information】 鈴木仁がプロデュースするコーヒーの最新情報は、自身のInstagram、又はOceanLux Coffee公式InstagramのDMにて受付中。現在は、より手軽に購入できるオンラインストアも準備中。
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[PR] dance「何を着るかは、どう生きるか」プロダンサー1chがTimberlandと魅せるのは、何にも縛られない自分のリアル剥き出しのスタイル2026.03.09日本のみならず海外でもグローバルに活動し、現在はD.LEAGUEのステージでも活躍するプロダンサー1ch。KRUMP・POPPIN・HIP HOPなどの枠を超え、ジャンルに囚われない「1ch」という独自のスタイルを追求する彼にとって、ダンスとファッションは「今の自分のリアルを包み隠さず出す表現の場」だという。一瞬の直感や熱を表現し続けている彼は、ファッションとは自分のスタイルを示す「無言の自己紹介」であり「覚悟の現れ」であるとも語る。 今回は、確かな実力と独自のファッションセンスで異彩を放つ1chと、ヒップホップカルチャーにおいてワークブーツ本来の無骨さと高品質がニューヨークのラッパーやダンサーたちに支持され、ストリートスタイルのアイコンとして定着したブランドでもあるTimberlandが、プロドラマーの仁志(ひさし)を交えて映像作品にて共演。 なお本インタビューでは、長年Timberlandを愛用している1chに、実際に新作である 【Timberland 25】6インチブーツ を着用した感想をはじめ、彼のライフスタイルに直結したファッションのこだわり、ダンスとファッションの関係性、そして彼が大事にしている自分自身のスタイルのあり方、また彼が目指している「1chという存在そのものがスタイルになる」という夢について、1chの今のリアルな気持ちの部分に迫った。 1ch (以下:I ) ダンスもファッションもジャンルに囚われない「1ch」という自分自身のオリジナルを表現するスタイル ― 唯一無二のオシャレさが特徴的な1chさんですが、普段ファッションでこだわってる部分について聞かせてもらえますか?I:一番は自分の体型にあったサイズ感だったり、それこそ他の人にはない唯一無二の雰囲気が出せるような組み合わせでアイテムを合わせるようにしています。 そのためにもジャンルは問わず色々なファッションを選ぶようにしていて、例えばストリートファッションの要素を、アメカジやジェンダーレス系のファッションにも取り入れることで「これ意外と合うんじゃね?!」みたいな発見を普段から模索しています。そういった部分からも特定のファッションジャンルへ絞らずに、ファッション全体を幅広く見て「このファッションの組み合わせだったら自分にはこのアイテムが合いそうだな」というのを考えながら日々ファッションを楽しんでいます。 ― ちなみにダンスの時のファッションは日常使いのものとの違いはありますか?I:ありますね。単純に一言で表すと「動きやすさと自由さ」で違いがあると思います。ダンスの時はとにかく動きやすさを重視していますし、普段のファッションの時は自由さを一番にして着ているという感じです。もちろんダンスの時の服装もジャンルに囚われないようにできるだけ自由度を高めにすることは意識しているのですが、やっぱり踊るとなるとパフォーマンスが絶対落ちないようにすることが重要なので、 ダンスの時のファッションは1番に動きやすさ、2番目にオシャレさという順でスタイリングしています。 ― そのような自分のファッションがダンススタイルとリンクしている部分もあるのでしょうか?I:やっぱりダンスもファッションと一緒で「ジャンルに囚われない」ことを意識しているのでその部分がリンクしていると思います。 僕のバックグラウンドとしてはKRUMP・POPPIN・HIP HOPというジャンルがあるものの、「このジャンルのダンスをしている」という感覚ではなく、「1ch」っていう僕だけのスタイルでジャンルに囚われずに自由に踊るようにしています。 そういう面でもファッションのスタイルも同じで、この系統が好きというよりは自分自身を表現したいので、色々なものを見ていく中で自分にうまく溶け込んだ、どのジャンルにも囚われてないスタイルという部分がダンスにも通ずるところかなと思っています。 ― 何にも囚われない自由なファッションスタイルを体現されている1chさんですが、それぞれの服装をどういう風に選んでいるのかを聞かせて欲しいです。I:その時々の服の選び方に関しては大きく2つに分けられると思います。ダンスの時は「1ch」というダンサーを最大限表現するための服装選びで、自分のダンスは特に音の質感を表現するスタイルなので、 KRUMPの要素として腕を大きく振ったり、またPOPの要素として胸を弾いたりすることが多い中でそういった動きの邪魔をしない服でかつシルエットも良いという部分を重視しながら、ダンスの質感として重さや存在感を見せられるように、ファッションも踊りの一部として捉えて選んでいます。普段の服装選びはダンス以外の自分の性格やライフスタイル、またその時の気分を映すものというところを意識しています。単純に言うとダンスの時は「戦う自分」で、ダンス以外の時は「日常を生きている自分」というコンセプトで服装を選んでいます。 ― ダンスや日常に限らず、ファッションは足元も大事な部分だと思いますが、スニーカーやブーツなどの靴はどういう風に選んでいらっしゃいますか?I:これはダンスと日常で被る部分も大きいかなと思うのですが、基本的に履き心地と踊りやすさはマストで選んでいて、あとは自分の服装を際立たせるようなデザインを重視しているので、その3つの要素が靴選びにおいて意識しているところだと思います。 「ティンバーなのに、ヘビーじゃない」【Timberland 25】6インチブーツを履いて魅せたいのは、重厚感を感じさせる軽やかなストンプ ― 1chさんも普段から好きで履かれているTimberlandですが、改めてこのブランドのイメージを聞かせてください。I:一言で言うと、ストリートカルチャーに愛されてファッションに昇華したブランドというのが僕の印象です。どんなシーンでも使われているイメージがあって、かつどのような服にもすごい溶け込んでいて、それでいて存在感があってカッコいいブランドですね。定番のイエローブーツは小学6年生か中学1年生の時に、ダンスの先生や周りのダンサーの子も履いているのを見て、親に買ってもらってからずっと買い替えてはファッションで合わせたり長年履いていますね。 ― 【Timberland 25】6インチブーツを実際に履いてみた正直な感想を聞かせてください。I:とにかくめっちゃ軽くてびっくりしたのが第一印象で、その軽さもあって動きやすいので非の打ち所がないブーツだなと感じました。今回私服でTimberlandのオリジナルのイエローブーツを履いてきたこともあって、実際に履き比べしてみたのですが本当に軽すぎてびっくりしました。見た目は重厚感があってずっしりしているのにこんなに動きやすいというのは、履き比べしてみて面白かったです。 ― ちなみにこのTimberland 25を普段どのようなファッションで合わせてみたいというイメージは湧きましたか?I:今回のTimberland 25の一足で存在感がありますし、かなり土台がしっかりしているイメージがあるので何でも合いそうなのですが、僕的にはモード系やラグジュアリーブランドに合わせて、外しのアイテムとして組み合わせてスタイリングしてみたいと思っています。 ― ダンスの観点からも聞いてみたいのですが、この軽くて動きやすいのが特徴のTimberland 25でどのようなムーブをしてみたいですか?I:今回の撮影ではKRUMPを主に踊ったのですが、ストンプという踏んだりする動きは重厚感のある質感を出せましたし、軽くてすごい動きやすいので、今回セッションしたドラマーさんのドラムの音に合わせて、足を高速でバババっと動かしたりとかそういう軽い動きがすごいやりやすかったので、今後も重そうに見える動きも軽くこなしてインパクトのあるムーブを見せていきたいと思います。 【Timberland 25】6インチブーツ ― Timberlandブランドが大切にしてる言葉に「常識を破る」、「大胆」、「スタイリッシュ」があるのですが、この言葉を自分のことに置き換えた時にどのようにリンクしますか?I:僕にとって「常識を破る」は「ジャンルに縛られないこと」かなと思っていて、POPPINとHIPHOPとKRUMPを混ぜてダンスしてみたりとか、「ダンサーなのにこういう服を着るんだ」みたいなところを意識して、普段生活したり踊ったりしているのでそういう部分が通ずるかなと思います。 「大胆」に関しては勝ちに行く姿勢や中途半端にやらないという「ストイックな精神」で取り組んでいる部分ですかね。 D.LEAGUEやダンスバトルなどの勝負するコンペティションでも、ファッションをスタイリングする時でも、とにかく振り切ることを意識しているので、自分のそういう部分が大胆という言葉にリンクしていると感じますね。そして「スタイリッシュ」に関しては、ファッションにおいて僕自身が流行ではなく似合うかどうかを重視するという自分の哲学を持っているので、そういう自分のスタイルがTimberlandのスタイリッシュさにもリンクしていると思います。 スペシャルムービー:プロダンサー1ch x プロドラマー仁志 with Timberland25 ― 今回「ダンサー x ドラマー」というスペシャルセッションをしてみた感想を聞かせてください。I:めっちゃ楽しかったです。普段既存の曲で踊る感覚と全く別物というか、本当にもう2人で踊っているような感覚でした。ドラマーの仁志さんは踊っていないのですが、彼が生で音楽を奏でているのが人と踊り合ってる感覚に近かったというか、臨場感があってすごい熱気を感じながら、バイブス感じながら踊る感じがとても楽しかったです。仁志 (以下:H):僕は結構ダンサーの友達が多いこともあって、よくこういう風にセッションしているんですけど、今回の1chくんはKRUMPだから「バーン!」という力強いノリが噛み合っている感じがしてすごい楽しかったです。 ― 1chさんにお聞きしたいのですが、既存の音楽とは別物ということでしたが、ドラマーさんの生音の感じ方にはどんな違いがありましたか?I:やっぱりすぐそこに音がある分、音の強さに自分のダンスが持っていかれやすい感覚があったので、音に負けないように気持ちを入れてもう一段階ギアを上げて踊る感じで、いつもと気持ちの入れ方はかなり違いました。ただ生音の方が音楽に乗ってる感じがしましたね。 ― 一方で仁志さんにお伺いしたいのですが、1chさんのダンスにドラマーとして親和性を感じる部分はありましたか?H:実はKRUMPERとセッションするのは今回初めてだったのですが、トラッピーなビートっていうかこのキックの音にドンって体重乗っけてくれる感じが、ドラマーの行きたいところで行ってくれる感じで似ている部分だなと思いました。いつもだと間の取り方とかがなんか違うなって思うこともあるんですけど、今回は体が沈み込むタイミングが似ている感じがしました。また今回、1chくんとペアで一緒に履かせてもらったTimberland 25がとても軽くて、ほどよくあの体重も乗ってくれるからキックのバスドラムも踏みやすくて、すごいスニーカーライクな一足だなと思いました。僕はバイクにドラムを積んでストリートに行ったりもするんですが、バイクに乗ってても足を守れるし本当に色々なところに履いていける良い靴だなと感じます。 ファッションはダンサーの武器となる「無言の自己紹介」 ― ダンスを含めて自己表現におけるファッションの役割はどう感じますか?I:個人的にダンサーにとってファッションの役割は一言で言うと「無言の自己紹介」です。 ファッションって踊る前からその人のスタイルを伝えられるツールで、自分の世界観を視覚で見せるのが服だと思います。そういう意味でもダンサーにとっては服は武器になると思うので、それがダンスにおけるファッションの役割だと思っています。 ― ちなみに自分のファッションに対してのインスピレーションはどういうところから受けていますか?I:結構普段から街中で人のファッションを見ていることが多くて、オシャレな人はもちろんのこと、おじいちゃんおばあちゃんだったり色々な人のファッションを頭から足元まで見て「あ、この合わせ方おもしろいな」とか「俺だったらこの人の組み合わせ方、こう変換したらもっとオシャレに着こなせるかな?」という風に常にアイデアを巡らせたり、街に結構色々な人がいるのでそういう人のファッションは見るようにしていますね。 あとはダンサーではないのですが、お笑い芸人の四千頭身の都築拓紀さんっていう方の服の組み合わせがおもしろいのでその方からすごいインスピレーション受けたり、あと俳優の菅田将暉さんもとてもオシャレなので参考にしています。でも本当に色々な人がそれぞれの感性を持っているので、それを見て自分なりにどう落とし込んでいくのかをすごい大事にしながら普段ファッションしているので、老若男女・年齢性別・職業問わずそれこそジャンルレスでとにかく色々な人を見てインスピレーションをもらっている感じですね。 ― ダンスとファッションを含めて、自分のジャンルに囚われないスタイルを意識し始めたのはいつ頃からですか?I:割と最近ではあるのですが、3年前に上京してきてD.LEAGUEのステージに立ち始めたタイミングだと思います。 初年度のD.LEAGUE Season 1を見ていてめちゃくちゃ衝撃を受けて、世の中にはめっちゃ上手いダンサーがこんなにいるんだなと思うようになりました。翌年のSeason 2からステージに立たせてもらえることが決まった中で、誰かの真似やジャンルに囚われていたら強豪ばかりのトップダンサーたちの中で目立てないことに気づきました。 それからD.LEAGUEに入る前にそこを振り切って「ジャンルに囚われない自分のスタイルを見つけること」を決めました。ダンスやファッションの感覚も含めて、選手として目立つためには頭1個抜けてないと注目されないなと思えたことが自分だけのスタイルを磨くことを決めたきっかけですね。まあ元から服だったりファッションは好きだったのですが、そのタイミングから更にブーストがかかった感覚があります。 ― 今後、シーンやカルチャーにおけるダンスとファッションの関係はどう変化していくと思われますか?I:ダンスとファッションはもっと融合していくと思っています。今後新しいダンスジャンルが誕生したり音の種類が増えていくことがある中で、その時に新しいファッションジャンルも生まれるような気がしています。例えば、今あるグランジファッションというものは、グランジロックという音楽ジャンルができた時に歌手のカート・コバーンがやってた服装がそのままファッションになったものなので、今後そういう風にダンスとも色々な音楽だったりが融合していって増えていくんじゃないかなと思ってますし、カート・コバーンのようなそういったジャンルの第一人者になりたいなと思っています。 ― 今後ファッションを通して挑戦してみたいこともあったりしますか?I:まだ具体的に決まってはいないのですが、やっぱり服が大好きなので自分のアパレルブランドを立ち上げたいと思っているので僕のファッションを通じた活動も注目してもらいたいです。 何を着るかはどう生きるか。1chという存在自体が“スタイル”になる未来へ ― 今後の目標や夢について聞かせてもらえますか?I:「1ch」というダンサーとしての側面だけではなく、人間性を含めて僕の存在がスタイルとして認められることがひとつの夢ですね。 ゆくゆくは自分のファッションブランドを立ち上げて世の中の人たちにたくさん着てもらったりとか、あとは「1chっていうダンサー知ってる?」みたいな形で巷でめっちゃ有名になって、「あの人カッコいいよね!」って言われるようになったら良いなと思いますし、一人の人間としてカッコいい存在になりたいなと思ってます。 ― 改めて1chさんにとってファッションとは何かを聞かせてもらえますか?I:一言で言うと「覚悟の現れ」みたいな感じです。 個人的には何を着るかはどう生きるかみたいなことと同じなのかなととても思っているのでファッションは自分の覚悟の象徴ですね。 ― ダンスとファッションが好きな人たちに向けて、1chさんから「自分のスタイルを見つけるために大事なこと」を一つ挙げるとしたら何を伝えたいですか?I:一つだけ挙げるとしたら「自分の違和感を信じること」ですかね。 自分の中で周りと比べたりした時に「なんかちょっと変かも?」と思ったら、それがすごい個性になることもあると思っているので、自分の違和感を信じることがすごく大切かなと思います。 最初は直感的に少しネガティブに感じる部分もあると思いますが、それを突き通してみると自分のスタイルになっていって意外と良かったりもするので。例えばファッションでいうと、メガネとかキャップでもかけ続けると馴染んできたり、ちょっと変な形であっても他のものと組み合わせて着ることでカッコいいファッションになったりもするので、まずは自分から生まれた違和感を信じてスタイルを見つけていくことも良い方法かなと思います。 ― 最後に、1chさんにとってダンスやファッションを含めて自分のスタイルとは何ですか?I:自分の中ではダンスもファッションも「考えるより先に来る感覚」を一番信じているので、その一瞬一瞬で感じた熱や違和感を自分のダンスや服でアウトプットすることを常に意識しています。そういう意味では僕のスタイルは「今の自分のリアルを包み隠さず出す」ことなので、昔の自分のスタイルも未来の自分のスタイルもひっくるめて自分のスタイルですし、本当の意味で何にも囚われず、いまの自分の“リアル”な姿を体現することが「1ch」のスタイルです。 Timberland 「ティンバーなのに、ヘビーじゃない」 【Timberland 25】6インチブーツ “【Timberland 25】6インチブーツ” は、半世紀以上前に登場した“オリジナル イエローブーツ”のアイコニックなシルエットやクラフツマンシップを受け継ぎながら、より軽やかさを求める現代のライフスタイルに合わせて、従来モデルから25%もの軽量化を実現しました。アクティブに動く日常においても、踏み出した瞬間からライトな1歩と快適な履き心地を提供するデイリーユースに最適なブーツに仕上げました。 1ch プロフィール 1999年11月9日生まれ、広島県出身。11歳の時にダンスに出会う。その後広島のダンススタジオ、STUDIO FLEX でインストラクターをしながら、日本全国で様々なバトルでの受賞、ショーケースやワークショップなども行い、日本のみならず海外でのワークショップやジャッジなども務め、グローバルに活動している。世界最高峰のストリートダンスコンテスト"JAPAN DANCE DELIGHT vol.24”にて歴代史上最年少ファイナリストとして出場した経験を持つ。現在はD.LEAGUEダンスチーム「CyberAgent Legit」のメンバーとして、またダンスインストラクターの活動を中心に、ダンサー以外ではビートメイクやDJなどクリエイティブな活動の幅を広げている。






